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「あ……私は助かった、ほんとに助かった※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
という感じが、気の遠くなるような薫香をもって、痛いほど強く彼女の心をうった。
「ほんとに私は助かった。こうやって生きていられる!」思わず嬉し涙がこぼれた。魂の隅から隅まで、美しい愛情で輝き渡って。誰にでもよくしてあげなければすまない心持になり、彼女は歓喜の頂点で、啜泣いたのである。
この不意な、彼女自身も思いがけないとき、目の眩むほどの勢で起ってくる感激は、珍らしいことではなかった。食事の箸を取ろうとした瞬間に、二本の箸を持っている手の力が抜けるほど、心を動かされたこともある。軟かい飯粒を、一粒一粒つまみあげて、静かに味わって喜ぶほど、彼女のうちにはこまやかな、芳醇《ほうじゅん》な情緒が漲《みなぎ》っていたのである。
「私ほんとうに今まで浩さんに、済まないことばっかりしてきたわねえ。どうぞ悪く思わないで頂戴」
二人は向い合っていた。
「なぜです? そんなことあ何んでもないじゃあありませんか、お互っこだもの……」
「そりゃああなたはそう思っていてくれるけれど……でも何だわね、あなたが親切にしてくれるほど、私は親切じゃあなかったのは、ほんとうよ」
口を開《あ》こうとする浩を遮《さえぎ》って、お咲はつづけた。
「姉なんだから、そのくらいしてもらうのは当り前だと思っていたんだけれど、この頃は何だか今まで、皆にすまないことばかりしていたような気がしてたまらないのよ。ずいぶん怨んだり――そりゃあまさか口には出さなくってもね――したことだってあるのを、皆がこうやって私一人のために尽してくれるのを思うと……(涙がとめどなく落ちて、言葉を押し殺してしまった)ほんとに有難いの。私が悪かったことを勘弁して欲しいのよ浩さん、私もできるだけ親切にするわこれから……。貧乏すると心が悪い方へばかり行くわねえ」
浩は大変嬉しかった。姉と一緒に涙をこぼしながら、一言、一言を心の底から聞きしめた。独りで堪えなければならない苦痛で、堅たくなったような胸を、やさしく慰撫されるのを感じた。彼が折々夢想する通り、身も心も捧げ尽してしまいたいほど、尊い立派な心を所有する女性のようにも思われる。彼の年がもっているいろいろな感情が燃え立って、どんな苦労も厭わないというほどの感激が、努力するに一層勇ましく彼を励ましたのであった。
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