「なぜ分らないんだ? 君には、悪いことをしそうな人間と、善いことをしそうな人間とが分らないのか? かりにも僕の親が、僅かな金、いいか金のためにだよ、祖先の名を恥かしめるような行為をするかというんだ! 貧乏したって武士は武士だ、そうじゃあないかい、馬鹿な!」
 興奮してきた庸之助の眼からは、大きな涙がこぼれた。啜泣《すすりな》きを押えようと努める喰いしばった口元、顰《しか》めた額、こわばった頬などが、動く灯かげをうけて、痛ましくも醜く見えた。彼の胸は、八裂《やつざ》きにされそうに辛かった。
 世の中の「悪」といわれるような誘惑や機会は、たといそれがいかほど巧妙に装い、組み立てられて来ようとも、信頼すべき父親と自分の、士《さむらい》の血の流れている心は、僅かでも惑わせないものだという、平常の信念に対して、このように恥辱な事件に父の名が並べられるというのは! あんまりひどすぎる。彼は大地が、その足の下で揺ぐように感じた。口惜しい、恥かしい、名状しがたい激情が、正直な彼の心を力まかせに掻きむしった。あてどのない憎しみで燃え立って庸之助は、
「うせやがれ! 畜生※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
と叫んだ。往来の者が皆この奇怪な若者に注意した。そして或る者は嘲笑い、或る者は同情し、恐れた若い女達は、ひそかに彼の方を偸《ぬす》み見ながら、小走りに駆ぬけて行った。
 ずいぶん長い間歩いていつもの部屋に帰るまで、浩はほとんど一言も口を利かなかった。どうしても口を開かせない重いものが、彼の心じゅうを圧しつけていたのである。
 その晩彼は、いろいろなことを考え耽った。
「或る方へ或る方へと向って押して行く力に抵抗して、体をそらせ、足を力一杯踏張って負けまい負けまいとしながらいざというときに、ほとんど不可抗的な力で、最後の際まで突飛ばされる心持を、或る時日と順序をもって、こういう事件を起す人々は感じないだろうか? 悪そのものに、興味を持っているのでない者は、踏みこたえよろよろとする膝節が、ガックリ力抜けするまでに、どのくらい体中の力を振り搾るか分らない。けれども現われた結果は、なるようにしかならなかったのである」
 浩は、自分の内心に起る、実にしばしば起る、強みと弱みの争闘――自分という人間が、その長所に対して持っている自信と、その弱点に関する自意識との争――がもたらす大きな大きな苦痛を
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