いう云いかたは、変だと思う。じゃあ普通の女ってどういうのさ。御亭主にやしなって貰って、御亭主立身させて、金ためたいと思っている、そういうのが普通の女と云えば、自分でたべて行かなけりゃならない乙女さんの立場だって、決して普通の女じゃないわけだもの。そうでしょう?」
 乙女はこっくりした。そして、黙って当惑げに唇をなめた。その様子には、そう云ってことわっておいでよ、とだけ云われて出て来た乙女の、この場になっての云いがたい当惑と不安とが語られているのであった。
 ややあって、ひろ子は、
「もういい、いい」
と苦しさも思いすてようという風に云って、時計を見上げた。
「時間いいかしら。わざわざ呼び立てたようになって御免なさいね」
 そして、乙女が派手ではあるが乾いた花のように少し埃をかぶった姿をかがめて、
「じゃ、御免なさい」
と格子に手をかけそれをしめて一二歩あるき出したとき、それまではついむっつりと黙って立っていたひろ子が急に乙女のかげの細さにうたれたような声で、うしろから、
「何か用があったらいつでも来なさいね」
とよびかけた。
 その年の六月は雨がすくなくて、梅雨に入ってからも晴れた日がつづいた。ひろ子は、不如意な家持ちの暮しぶりは同じことながら今はそこへ腰をすえた気分で、二階の手すりに近く深々と桐の青葉のひろがる濃さや、見下す隣家の竹垣のわきで紫陽花《あじさい》が青貝のような花片を燦めかせはじめたのを、眺めた。
 その日も朝から晴れわたって、真夏そっくり雲のかげ一つない青空からかんかんと照りつけている午後、重吉のところから嵩《かさ》ばったハトロン紙の小包がとどいた。ひろ子は、それと一緒に投げこまれた詩の薄い同人雑誌もかかえこんで物干しへ出た。小包は冬の間つかわれていた毛布であった。二本の竹竿にかけわたして、それを溢れる日光と大気の中にさらしてから、カンバス椅子を簾のかげにひっぱって行って、ひろ子はそこで雑誌をあけた。特別のこともなく頁を繰っていたが、なかほどのところで彼女の眼は一枚のカットに吸いよせられ、それと同時に暗い、はげしい色が顔をつつんだ。カットの裸体の女の像は、特徴のある弓形の眉も大きい眼も黒子があってすこし尖ったような上唇の表情も、まがうところのない乙女であった。粗い墨の線で、まるはだかの瘠せてとがった乙女の両方の肩つきが描かれている。何とそれは見まがうことの出来ないあの乙女の肩だろう。乙女ははだかで、真正面むいて、骨ばった片膝を立てて坐り、両腕はそのままだらりと垂れ、二つの眉をつり上げて、今にも唇をなめたいところをやっとこらえていると云いたげな表情である。このような乙女を描いているのは、乙女の良人であった勉が生きていた頃から、知人ではあったがその芸術上の態度では決して一致していなかった画家、むしろそのデカダンスを勉は軽蔑していた、その画家である。頽《くず》れた荒い線で、ここに一人の瘠せて小さいまるむき女性が乱暴に描かれて居り、二つの眼のこりかたまった大さと、腕のつけねや腹の下のくまがそれぞれ体に不似合な猛然さで誇張されている、それがほかならぬ乙女であるというのは何たることだろう。はだかの妻を描いた勉の絵というのをひろ子は一枚も見たことがなかった。乙女はやとわれて着物をぬぐ稼業ではなかった。この素描は、乙女とその画家との最もあらわな絵なのであった。いつかの乙女の態度も思い合わされる。
 ひろ子は、渋いきしむような涙が胸のなかをおちる心持で、猶もじっとその絵を眺めた。この絵の中でも乙女はやっぱり昔どおり嬌態をつくることを知らず自分の肉体が自分をうごかしている力をも自覚していない。そのままにいつとは知らず若い彼女が踏み出した人生の道とはちがった流れのなかに漂いはじめている。勉の真面目さや人生への熱意が、妻であった乙女にとっては、反動のようにこういうところにひきつけられて行くような作用としか働かなかったのであろうか。ひろ子の心には、この人生に選択する力をもたない乙女への憐憫とともに、今日の乙女のこのありようが勉の辛苦にみちた生涯の残した誤りの一つだとは決して云えないと、高く叫ぶ声がある。乙女が或る時期つくした善意のためにも、切ない心持であった。そして、また重吉や自分や友子や、そういうみんなの、今日を生きようとしているひたむきな心のためにも。
 ひろ子は、たえがたく胸にみちて来るこの感想をもって、その人によりそう思いで、物干しへ出て、何とはなしそこに乾されている毛布の面を撫でた。永い寒気の間幾冬もつづけて重吉の体をまもって来た毛布は、晴天の下で快く熱をふくみ、薄茶色にふくらんでいる。
 ひろ子の指先がふとその面で一本の髪の毛にふれた。心づいて見れば、そこにも、ここにも。重吉の髪の毛が、苅りくちもくっきりと三四寸のながさで、
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