わ」外套のボタンをはずしながら好子が云った。
「落着かないわねえ。何万人もが私たちみたいな心持でいるんだと思うと、夜中に目が醒めた時なんかとても変な気がするときがあるわ」
 秋ごろ戦死した或る新劇の俳優の噂が出た。
「でも私秋子さんをまだ幸福な方だと思うわ、亡くなった旦那様の仕事を守ってやって行くちゃんとした俳優としての才能が御自分にもあるんですもの」
「そう簡単なものかしら……」
 参吉と話したときもそうであったが、多喜子には、別な内容で秋子という女優のひとが経て行かなければならないであろう苦難の複雑さが深く思いやられるような気がした。
「一緒の仕事をしていて、しかもあの方たちみたいに、どっちかって云うと旦那様が指導的だった名コンビは、私は片方に死なれるのはこわいと思うわ。打撃がひとより深刻ですもの。才能っていうか、生きる意力っていうか、そういうものがよっぽどなければ、その深刻な打撃を芸術と生きる態度の上のプラスにするのがむずかしいもの。大変な努力だろうとしみじみ思うわ」
 好子の良人は或る機械工場に勤めている技師であったが、この夫婦の生活の色合いは、例えば今も好子が、
「そりゃ、居なくったってどうにか食べては行けるにしたって、ねえ」
と自分の心持を云いあらわすようなところで、多喜子たちと違っているのであった。多喜子は三畳の方へ来て、テーブルの上へ型紙をひろげながら、
「ねえ、あなたのところはどう? 私たちこの頃、また随分いろいろ話し合うようになったわ。昔左翼のひとでね、夫婦の間で決して翌日まで喧嘩をもちこさない約束で暮している人がいたって、その気持やっと今わかるようだわ」
 好子にしろ、洋裁をやり始めたには、やはり勝たずば生きてかえらじという歌を流行歌のようにはきいていられないものがあってのことなのである。
 心の内から堰《せき》あふれて来るものに動かされている眼の表情で、多喜子は、
「好子さん、あなた、詩人に注文がない?」
と云った。
「私あるわ。もっと本当に私たちが大事なものを出してやる心持をうたった歌が欲しいわ。勇ましく戦ってくれ、そして、成ろうことなら生きて還ってくれ。どんなにこの心は強いでしょう。そして皆の願いがそうなのだと思うわ。そういう真個《ほんと》に情のあふれた落着いて勇ましい励ましの歌が欲しいわねえ」
 好子は、型紙のつくりかたをやっているところで、ハトロン紙の隅で計算をしては物指で作図をしている。テーブルの上へ拡げた紙へ胸ごとのしかかる姿勢で好子はおだやかに云った
「山田は時々戦死するかもしれないよと云うのよ。そんなとき、私、それはそうねと云って、それでもやっぱり何か確《しっか》りしたものを二人の間に感じて落着いていられるようになりたいと思うわ」
 やがて小枝子が、寒いなかをいそいで歩いた薄赤い溌溂とした顔でやって来た。
「御免なさい、おくれて。出征の人で電車がこんでこんで……」
 事務員らしいてきぱきさで、小枝子はすぐ仕事机の隅の風呂敷包みをひろげ、三尺の押入れを衣裳箪笥まがいにしたところに吊ってある縫いかけのスーツの上着を出した。小枝子が来るようになってもう一年以上経った。事務員では何年つとめていても技術がつかない。その自動車会社がしっかりしているので目前の月給は悪くないのであったが、小枝子は或る時不図そのことに気がつくと不安になって、新劇の或る女優の後援会で知りあった多喜子のところへ洋裁を習いに来はじめたのであった。今では、ひとのものも縫えるところまで腕がついているのである。
 独身で勤め人の小枝子が加わると、話題もおのずからひろがって、三人の女は手や足先を動かしながら、その後援会に二人が加わっている女優の演じた田舎の庄屋のおかみさんが粋すぎたなどという話も出た。仕上げミシンの急所のところで、多喜子が、
「あ、ちょっと、そこはこうした方がいいんじゃないかしら」
 自分でミシンを踏みかけたら、小枝子が、
「私、下ふみますから……」
 多喜子を軽く押しのけるようにした。
「あら。大丈夫なのよ、今は。自分の仕事だってしている位なんですもの」
「ええ、でも。今度は本当にうまくお生みんならなけりゃいけないんですもの」
 何か思いがけなかったような女同士の温い心づかいが小枝子の声や身ぶりの中に感じられて、多喜子は却って言葉がつまった。去年初めて姙娠したとき、多喜子は自分の健康に自信をもちすぎていて、テニスをしたり自転車にのったりしたために流産をした。小枝子はそのことをさしているのであった。
 一仕事すんだくつろぎで番茶をのんでいると小枝子が、
「きょうの『女の言葉』よみました?」
と二人に向ってきいた。
「朝日のでしょう? まだ見なかったわ、何か出ているの?」
「ある女のひとが投書しているんですけれどね、電車
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