のなかで私たちみたいな女がドストイェフスキーみたいな厚いむずかしいものなんかをよんでいるのを見かけるが、果して彼女達はどこまで理解してよんでいるのだろう、って云うんです。電車の中なんかでは軽い雑誌とかパンフレットでもよむべきだって、その女のひとは云うんです」
「何てわからないんだろう! そのひと」多喜子が、怒ったように小枝子に振向いて訊いた。
「生意気だって云うの?」
「さあ。――とにかく机に向わなけりゃドストイェフスキーなんぞわからないって云うんでしょう」
「変なのね、私たち誰だって電車の中でよんだ学課以外の本のおかげで、どうやら読書力がついたんだわ」
「そのひとには、往復の電車で本をよめるというのがどんなに勤めているもののよろこびと慰安だか分ってないんですのね、きっと」
いくらか難詰の声で小枝子が云った。そして、
「何しろ、現にこういうのがあるんですからね」
自分のメリンス包の下にカヴァをかけてもっている大版の「緋文字」をちらりと見せて小枝子はユーモラスに首をすくめて笑った。
「何だか苦しかった。どっかに今朝の『女の言葉』を見た人がいて、ははん、あれだな、なんて見られているんじゃないかと思って」
「まさか!」笑い声の中から、小枝子が、
「現実に、ひる間つとめて家へかえれば疲れているんですからね」と云った。
「机にきちんと向わなければ読めないんだったら、私たちのようにして暮しているものは結局一冊の本だってよめやしないと云うことになるんです」
顔の内側に明るく燃え立っているものがあるような表情で小枝子はそれを云うのであった。
多喜子たちが卒業した女学校の専門部で文明史を教えていた教師の一人が、イタリーの方へ交換教授のようにして行くことになり、その送別会があった。出席した同級の幾人かは、どちらかというと多喜子のように友達に会いたい方が主で、こっそりこちらのテーブルの端で、
「私戸田先生イタリー語がお出来んなるなんてちっとも知らなかったわ」
「日本語を教えにいらっしゃるんだって。だからイタリー語は出来なくたっていいんでしょう」
そんなことを、凡庸であった教授ぶりへの感想をもこめて囁きあっている連中がある。形式ばった茶話会がくずれてから、多喜子はヴェランダのところで煙草をすっている桃子のそばへよって行った。
「お嫂さん、小包で送ったりして、何とか云ってらっしゃらなかった?」
「平気よ。――きのうだか早速着て出かけたわ」
多喜子は、ちょっと躊躇していたが、やがて、
「実は私、こないだのあの方たちの話、余り妙な気がして……」
と云った。
「私の仕立屋さんとしての面でだけ受け切れないようなところがあって」
と苦笑した。桃子は、とっさに何のことか見当がつきかねる風であったが、
「ああ」と、軽くうなずいて、
「あのひと達ああなのよ」あっさり煙草の灰をはたいた。
「そう云ってしまえばそれっきりみたいなものだけれどさ。――私桃子さんの生活が、やっぱりああいう空気の中にあるんだと思うと、それでいいのかしらって気になるわよ」
「大丈夫よ、原さんたら!――相変らずねえ」
どこか微《かすか》に誇張されたところのある快活さで桃子は陽気に多喜子の背中をたたいた。
「私は私よ。お互があれで幸福なんだから、はたでかれこれ云うに及ばないのよ」
私は私と桃子がいう、その気持の内容がはっきりせず、謂わばそんなに手際よく自分だけ複雑な生活の中で別者のように云っていられる心持が多喜子には納得ゆかないのであった。桃子のそういう態度は大変怜悧なようで、その実自分の心持を見守る手数をどこかで省いているか、投げているかのように感じられるのである。
音楽も抜群であるし、絵をかかせればやはり目をひくだけの才気を示し、人の心の動きを理解する力も平凡ではないのに、桃子にはとことんの処へ行くとすらっと流れてしまうものがあった。一本気なところのなさが、桃子のいろいろの才能をも、つまりはちゃんと実らせない原因のようであるし、多喜子はそのことをもやっぱり桃子の毎日の境遇ときりはなして見ることは出来ないと思うのであった。
頭脳の明敏な愛嬌にほんのぽっちり面倒臭さを露わに示したうわて[#「うわて」に傍点]な親密さで、桃子は、
「さ、あなたはどっちへ帰るの? きょうはあなたの護衛の騎士になってあげるわよ」
「ありがとう。でもきょうはいいわ、五時に日比谷で原に会うの」
「ハハア」桃子は抑揚をつけてそう云いながら大きく顎をひいて芝居がかりの合点をすると、手にもっていたベレーを振って、シラノ・ド・ベルジュラックが舞台でやるような挨拶をした。
「じゃ私さっさと消えるわよ、さよなら」
ヴェランダの降口まで足早に去って、桃子はそこからもう一度こっちへ顔をふり向け、腹立ちより寥《さび》しい気分
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