のところらしい幸治がにやにやしながら、
「貧乏ひまなしでやっていますとたまには、病気もなかなかいいところがあるですよ」
 エアシップの灰をおとしながらしかつめらしく云った。
「妙なもので公然と欠勤した日の味はまたちがいましてね、勤人根性ですね」
 増田の父親の経営している会社の子会社へ、若専務として幸治はオースティンで通っているのであった。
 苦労のない三人がストウブのまわりで顔をつき合わせて何や彼やと、やや倦《う》んじたところへ多喜子が来たのも、小さい新しい一つの刺戟であるというらしい暢《の》びやかな、とらえどころのない雰囲気である。
 多喜子が帰るしおを計っていると、幸治が案外の敏感さで、
「まあよろしいでしょう」
ととめた。そして、冗談と十分対手に分らせた物々しさで、
「どうだい、ひとつ多喜子さんに僕たちが何に見えるか鑑定していただこうじゃないか」
と云い出した。
「何に見えるって――何なの?」
 桃子の顔を見ると、桃子は火鉢のふちへもたれかかって妙に口元を曲げたなり火箸で灰をいじっていて聞えないようにしている。
「実はきのうは、僕たちの記念日でしてね、ひとつ趣向をかえて御飯でもたべようということにしたんです、或る家でね。細君なのか、細君でないのか、という微妙なところをやって見せようというのに、役者が下手で駄目なんです。僕がわざと女中の来たときに、あっちのお帰りの時間はいいんですかとか何とか盛んにやるのに、この奴ったら、……」
 尚子は、ふふふふと笑って、
「だって――」
と云ったが、いかにも屈托ない様子で、
「あの女中さん、一向けろりとしていたわね」
 それが寧ろ不思議らしい調子である。
 さっきから黙っていた桃子が頬っぺたに散りかかる髪を払いのけるように火鉢から頭をあげて、
「とにかくお兄様は心臓がつよいわよ」
 何処か突かかるような云いかたをした。
「ところで、多喜子さんにはどう見えますか、夫婦にしか見えませんか」
「だって――ほかにどう見えたらいいんでしょう」
「第三の人物を仮定して見ても駄目ですか?」

 ほかならない結婚を記念する晩に、わざわざ自分の妻に不貞な妻としての役割をさせ、自分をも不貞な良人と仮定した位置において食事を一緒にする好みとは、何ということなのであろう。女中がけろりとしていたとか何とか、罪のない眼附を良人の顔の上へ注ぎながら云っていた尚子の丸い顔を思い出すと、多喜子はそこにああいう日暮しの人々の結婚生活というもののかげに潜んでいる非常に恐ろしい、唾棄するようなものが、尚子にも気附かれずのぞき出しているのを感じた。帰りかける多喜子を送って玄関へ出て来た幸治夫婦が、計らずものの拍子でくっつき合った互の肩をそのまま並べ、上機嫌で、
「さようなら」
「じゃまた、御ゆっくりね」
と晴々した声を揃え、多喜子に向って手をふって別れを告げた彼等のもつれあった姿を目に泛べて、一方に何か全く普通の娯楽ででもあるかのように話されたそのことを考え合わせると、多喜子にはそういう人々の生きている感情の奇怪さが迫った。この頃はいつ召集があるかもしれないような事情のなかで、自分たちが本気でそれを守り高めようとして暮している夫婦生活の平凡な真面目さが、何かに嘲弄されているような嫌な気もするのであった。
 北向きの三畳が多喜子の家では仕事部屋になっていて、東の高窓際にミシンがおかれ、仕事テーブル、アイロン台と、順に低い一間の明り窓に沿って並んでいる。赤い三徳火鉢に炭団《たどん》を埋めたのを足煖炉代りにして、多喜子はもって帰った尚子の仮縫いの服の仕事をしていたのであったが、暫くするとそれをやめてテーブルへ置いた。重くてつるつるとしたその絹服の感触が幸治たちの生活の感覚をひっぱっているようで、いじっている気がしなくなったのであった。
 多喜子は腕時計を見て、椅子をおり、台所からもう一つ同じような三徳をもって来た。茶の間の火鉢からおこっている炭団をうつしていると、格子の鈴が鳴って、
「いらっしゃる? あがってよくって?」
 カタ、カタと足からぬがれて三和土《たたき》に落ちる左右の靴の踵の音をさせて、好子が入って来た。
「――小枝子さんもまだだったの? 私おそくなったと思っていそいで来たんだけれど……」
 毎土曜の午後、多喜子は洋裁の稽古をしているのであった。
「狸穴《まみあな》からだから、途中にかかるのよ」
「きょう、お宅は? やっぱりおそいの?」
「夕飯まで図書館へまわって来るんですって。この頃あのひと一生懸命だわ、呼ばれないうちにせめて今やっている分だけでもまとめたいって」
 参吉は或る私立大学の講師をしている傍ら、近代英文学の社会観とフランス文学のそれとの比較をテーマに研究しているのであった。
「うちの伍長さんだって危いもんだ
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