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と真面目腐って云って居る。
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「ほんとうにそうなのよきっと。
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と、到々あきらめて仕舞ったと云って、子供の無邪気な一つ話になって居る。
 事実は、単純な只それだけの事であるけれ共二人の子供の気持を考えると、話以上の面白さがある。
 自分より小さい隣の児に対する弟の態度や何かがそろそろ男と云うものらしくなって来た事などに気付くと、頼もしい様な惜しい様な気になって、見なれた癖の中にいつも、新らしい事を発見したりするのは大抵そんな時であった。
 いつも、家と裏の家との仲介者の様な位置にある弟は、段々育って来た批評眼で、まるで違った二つの人間の群を興味深く見て居たらしい。
 最う此の上ないほど暑い八月の或る日、裏の主婦が、海水浴をする時用う様な水着一枚で、あけ放った座敷の真中に甲羅干しの亀の子の様に子供達とゾックリ背中を並べてねて居たのなどを見て来ると、弟はむきになって、あんまりだらしがないとか、見っともないとか云っていやがった。
 一体此処いら界隈が学者町で、相当に落つきのある生活をして居る人が多く、したがって、それ等の人達の娘だとか妻君だとか云う人で暇仕事に音楽などをする人が多いので、東京の音楽の盛な区の中に入って居るとか云う事をきいた事があった。
 実際上手下手は抜きにして殆ど家並にその家人の趣味を代表した音が響いて居るので、孝ちゃんの家でもいつの間にか、昔流行った手風琴を鳴らし始めた。
 どっか恐ろしくのぽーんとした大口を開いた様な音からして、あんまりいい感じは与えない上に、その主があの親父さんだと云うのだから又いい笑種にされてしまった。
 一つの電気の下に集まって、毛脛をあぐらかいて、骨ごつな指を、ギゴチなく一イ、フウ、三イ、とたどらせて行く父親をかこむ子供達が、その強張った指と、時々思い出した様に、ジーブッ、ブーブーと響く音とから、大奇籍[#「籍」に「(ママ)」の注記]でも現れ出そうな眼差しで、二つならべた膝に両手を突張ってかしこまって居る。
 その様子を想像するさえ可笑しいのを、弟が、身振り口真似で云ってきかせるのだから笑わずには居られない。
 私共だって、一段上の趣味の高い完全な人から見ればそりゃあ又可笑しい事だらけだろうけれ共、何から何まで吊合わない、まるで糸の工合の悪い操り人形の様な事々を見せられると、
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 あれがよくまあ平気で居られる。
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と思わないわけには行かない。
 まるで、風土文物の異った封建時代の王国の様に、両家の子供をのぞいた外の者は、垣根一重を永劫崩れる事のない城壁の様にたのんで居ると云う風であった。
 けれ共子供はほんとに寛大な公平なものだとよく思うが、親父さんに、
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「おい又行くんか。
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と云われても何でも、
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「ええそうなのよ、
 父ちゃん。
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とか何とか実にスラスラと事を運んで、ケロッとした顔をして御飯に呼ばれるまでは遊んで行く。
 大人もちょんびりでも心の隅にああ云う気持を持てたらさぞ愉快な事だろうと思われる。
 普通の女同志のつき合の七面倒臭さに、同じ女ながら愛素をつかして居る私は、そう云う事を見ると、たまらなく羨しくなって来て、
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 ああだったらなあ。
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とつい出て来るのである。

 或る大変涼しい晩――もう秋の中頃がすぎて、フランネル一枚では風を引きそうな、星のこぼれそうな夜であった。
 八月に生れた赤坊を一番奥の部屋でねかしつけて居ると、どっかで、多勢の男の声が崩れる様に笑うのが耳のはたでやかましくやかましく聞えて来た。
 蚊をあおぎながら乳をのませて居た母は、
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「どこだろうねえ、
 山村さんかい。
 随分にぎやかなんだねえ、
 これじゃあ赤ちゃんも寝つかれまい。
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と云いながら、ワッワッとゆれる様な音を気にしだした。
 わきで本を見ながらかるく叩いてやって居たのだけれ共、あんまりひどいので、蒸して来るのを心配しながら硝子を閉めたり戸を立てたりして、フト気をつけると、どうしても孝ちゃんの家の方向である。
 いつも静かな山村さんは相変らず人も居ない様になって居るからてっきりそうだと注意すると、少くとも十人内外の人が酒機嫌で騒いで居るに違いない。
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「孝ちゃんの家なのよ、
 どうしたんでしょうあの騒は、
 皆酔っぱらって居るんですよ。
 随分いやあねえ。
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と云って居ると、今度は余程可笑しい事があったんだと見えて太い声が引き附けた様に浪を打って笑いこけると、その中に女の様に細いそれでも男には違いないのと、低い低い地面を這う様なのとが殊に目立ってきこえて、沢山の響の中でその二つがいつもかなり聞いい音程を作って流れて行った。
 一方は痩せて髪を長く分けた二十代の男で、一方は三十五六の赤ら顔の男に違いない。
 若い方は洋服で、太い声は和服のきっと幅広の帯をしめて居る事が、声で想像されるのである。
 しばらくすると、端唄や都々逸らしいものを唄い出して、それも一人や二人ならまだしも、その十人位が一時にやり出すのだから聾になりそうになる。
 随分私共もおどけた事を云ったり仕たりして笑いこけるけれ共、始終上品な洗練された滑稽と云う事を各々に気をつけて居るので、子供などに聞かせたくない様な文句を高々と叫んで居るのをきくと恥かしい様になって、種々な世の中の事に疑問を多く持ち出す年頃に近い弟などはどう云う気で聞くだろうかなどと思うと、手放しで、ああ云わせて置けない様な不安と、さてそうは云うもののどうする事も私には出来ないと思う力弱さとで気がいら立って、大きな声で叱らなければすまないと云う様な恥かしさのまじった憤りが湧き立って来た。
 窓の傍に立ったりじいっと部屋の中央に立ちはだかったりして険しい眼附をして一人でプンプンして居た。
 母等も初めは、いかにも五月蠅そうに、
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「何て事ったろうねえ。
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とか、
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「ほんとにまあ困りものだ。
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などと云って居たがじきもう何とも云わない様になってしまったのが、余計私には物足りなくて、
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「ねえ、お母様、
 なんて云うんでしょう。
 あんなに男達がさわいで、家の女達はどうして居るんでしょうねえ。
 だまって見て居るんでしょうか。
 やかましい下等でほんとにいやになる。
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と云ったりして、しきりに同意を求めなどした。
 夜は、いつも私の何より尊い時間で夕食後から十一二時位までの間にその日一日の仕事の大半はされるのに、その夜は、濁声にかきみだされて、どうしてもしなければならない本を片手に持ちながら、とげとげしい、うるおいのない気持を抱えて家中を歩き廻った。
 一体此処いらで、そう云う調子のさわぎをきく事はまれなので、私などは、蟻の足ほど短かい今日までの生涯の中初めてきいたさわがしさであった。
 それだから、多くの人達の感じるより多く深く動かされたのであろう。
 男なんて随分下劣な事を平気で、云ったり仕たり出来る動物だなどとさえ思った。
 何か口を動かす物でも出たと見えて、少しの間しずまった折を見て自分の書斎に入った私は、又じき今度は、前より十層倍もある様な声で、
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「浅間山何とかがどうとかして
 こちゃいとやせぬ
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と怒鳴り出したので、漸う静かになったと思った私の気持は、一たまりもなくめちゃめちゃにされてしまった。あんまりだと思って涙が出そうになって来た。
 自分の子供だの細君だのを放っぽり出して、あんなにして居るんだろうと思うと、不断いやに落ついた様な、分別くさい顔をしてすまし込んで居るあの家の主人が、もうもう何とも云えないほど憎らしくなってしまった。
 人を憎むとか悪様《あしざま》に思うのは悪いと云っても、今などはどうしてもそうほか思い得ない。
 腹を立て疲れて私が床に渋い顔をしながらついたのは彼此十一時半頃であったが、母の話では、何でも雨戸は明け放しで十二時過まで、ゴヤゴヤ云って居たと云う。
 毎日ある事ではないんだからと、翌日の朝は、幾分か静かな考えになって居た。
 多分月曜か火曜であったと思うが午後から小雨がして、学校から帰って来た頃は気が重くて仕様がなかった。
 それに、昨夜の予定がすっかり狂って、あんな事のために大切な一日分の仕事がずって来たと云う事も不快で、今夜は、どんなにせわしなくても二日分の事を仕なければならないと、図書から借り出して来た厚い重い本を持って手をしびらして家にたどりついた。
 夕食をすませるとすぐ部屋に入る。
 苔の厚い庭土にしとしとと染《し》み込む雨足だの、ポトーリポトーリと長閑《のどか》らしく落ちる雨垂れの音などに気がまとめられて、手の先から足の爪先まで張り切った力でまるで、我を忘れた気持で仕事をしつづけて居た。
 嬉しさに胸がドキドキする様であった。
 八時半頃までまことに無事であったところが又思いもかけず、昨夜の騒ぎが繰返され始めた。
 けれ共、雨で四辺がしめって居るのと、人数が割合い少ないのとで余程凌げたけれ共、
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「又か。
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と云う様なぶべつした感情を押える事は出来なかった。
 次の日遊びに来た女の子にきいて見ると、
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「会津へ行くからなのよ。
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と云う。
 そうして見ると、銀行仲間を順繰りに呼んでは別れの騒をやって居るのと分るが、そんならそうで、ああ馬鹿放題な事をしずともと思われる。
 怒鳴らなけりゃあ二度と此世で会われないと云った人もないだろうのに気の知れないにも法図がある。
 このまことに驚くべき大餐宴が三日続いた最後の晩、弟は、押え切れない好奇心に誘われて到々垣見に出掛けた。
 三十分ほども鶏舎のわきに立ち尽して帰って来ると、堪らず可笑しい様な顔をして話し出した。
 部屋の障子も襖も皆はずされて居て一杯に人がならんで居る。
 孝ちゃんのお阿母さんが水をあびた様にズベズベしたなりをしてお酒を運んだり何かして居ると、女中と清子が、とりすました白粉をつけた顔をならべて酌をして居る。
 縁側に転寝をして居るものや、庭を眺めて居るものや、妙に肩を落して何かうなって居るものやら、玩具箱を引くり返した様にごちゃごちゃと種々な人間が集まって居る。
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「御馳走なんかろくにありもしないのに、
 皆はしゃぎきって居る。
 孝ちゃんの親父なんかヒョロついて居たっけ。
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などと弟はきかせた。
 翌日は、夜が大変更けた故か孝ちゃんの一家の眼を覚ましたのはもう九時近くであったので、学校の始業時間よりおくれて起きた女中が炊く御飯をたべて間に合う筈がない。
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「困っちゃったなあ、
 僕やだなあどうしよう。
 おいお前何故早く起きないんだい、
 おくれちゃったよ、
 いいのかい。
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と、女中を対手に孝ちゃんが泣声を立てて居るのがよく聞えた。
 まだ小さい子供に、酒に魂を奪われた様子を見せ、下らない事に夜を更けさせたり過度の刺戟を与えたりして、学校の出来が良いの悪いの云う親の無理を思わないわけには行かない。
 活動へ行くな、夜涼みに出るなと云って居ながら、平気で倍も倍も悪い様な事をしなければならない様に、云う者からして仕向けて居る。
 子供の教育などと云う事を形式的に、両方でちゃんとあらたまって座って居る時に限るとか、親自身で面白がって居る時は子供に教える折でないとか云う様な調子が、あんまりはっきり分るのでいやになって来る。不幸な子供達だ
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