ど、生活に必要なあらゆるものを、その室内に持ちこんで暮していた。燭光の小さい電燈の光が、日本人の習慣では想像もされないほどこみ入って、しかも整頓されているその室の光景を照し出していた。壁に美しく赤と黒との糸をつかったロシア刺繍の飾り手拭いが飾ってあり、その部屋においてあるすべてのものに脂の匂いがしみこんでいた。
 伸子はフィリッポフに会って、はじめてロシア人の口から話されるロシア語の魅力を感じた。同時に、クープリンの小説などでよんだように、当てどのない、しかも濃厚な生活雰囲気が東京のその一隅に生きていると感じた。
 フィリッポフは、しかし、素子が必要としただけの教育をうけていないらしかった。話す母国語は勿論わかっているが、文学として、こまかい語義の詮索になると、図ぬけて背の高いやせたからだに黒い服をつけたフィリッポフは、水のような瞳に半ば絶望の表情をうかべた。そして、顔ほどの長さのある手で亜麻色の髪をなであげた。
 丁度そのころ、ある日本の理学者の妻になっている音楽家のロシア婦人があった。その婦人の母と姉とが、その人について来て東京で暮していた。素子は、やがてワルワーラ・ドミトリエーヴ
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