おそろしいもがきのつづいていた間、伸子が佃とすんでいた家から逃げ出して何日か、或は何ヵ月かを過したところは、育った佐々の家の中ばかりではなかった。佃とわかれ、作品をかき出してから、伸子が第一に自分の机をおいたのは、老松町の路地の奥にある、あるお裁縫やさんの二階であった。白い実のついた南天の根もとには、いつも小さい紙屑が散っているような小庭のかなたに、寺の松の枝が見えていた。毎朝早くから共同水道の水の音が響く界隈であった。そして、夜更けて帰る人の下駄の音が、どぶ板に響いた。伸子は、そこの茶の間で、よく、細君がやいてくれる土佐の目ざしをたべた。奥の八畳にお裁縫に通って来ている娘たちが五六人並んで針を運び、小声でおしゃべりしている。その二階で、伸子はほんとの生涯がこれから始まるこころもちで小説を書きつづけた。くたびれると、小夜着をかけて、火鉢のそばに横になった。そんなとき伸子のからだの下にしかれるメリンスのきれいな大座蒲団は、素子がくれたものであった。その二階へ、佃のところから伸子のもっていた本が送りこまれた。伸子は小説を書く収入で、素子はある団体の雑誌編輯をしてとる月給で、二人は共同の暮し
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