々夫婦のこの頃の生活気分から重要さと愛着とを失われていることを意味していると伸子は思った。
 伸子が二十歳ごろ、まだこの家に娘として暮していた時分から、客室は次第に腰かける方がつかわれるようになった。水色と白の縞の壁紙がはられ、イギリス好みの出窓、その下につくりつけられた木の腰かけ。いかにも明治四十年代の初期に、その年代とおない年の日本の建築家であった父が、使える金のささやかな範囲で、自分の空想を実現したという工合の洋風客間は、柱も節のある質素なものであった。若葉の季節になると、出窓のビードロ玉のようなガラスが海の底にでもいるように新緑の色を映すので、伸子の少女の心はその美しさに奪われた。
 パンヤ入りのクッションがところどころに置かれていたその室の調度は年とともに、いつしか変った。この節は佐々の陶器の蒐集棚が立ち、メディチの紋が象嵌《ぞうがん》してあるエックス・レッグスの椅子などが置かれている。第一次欧州大戦の後、日本の経済は膨脹して、全国に種々様々の大建築が行われた。丸の内の広場に面する左右の角に、東京で最初の鉄筋コンクリート高層建築が出来た。佐々と今津博士との協同で経営されていた
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