さんはそちらではありませんか。もしまだなら、見ていらっしゃい。今にきっと行くでしょう。そういう意味の文句がかかれていた。素子にひかれてゆく自分の感情の性質をしらべようとしていなかった伸子には、その文句のわけがよくわからなかった。なぜ吉見は、この田舎へ来るだろうと、わざわざ佐保子が予言するのか、そして、その予言にどういう意味がふくまれているのか。伸子は、佐保子にしては珍しいハガキと思って見ただけだった。楢崎佐保子は、素子が専門学校の生徒だった頃から知っているのであった。
吉見素子は、佐保子の予言どおり、やがてその田舎の家へ来た。四五日一緒に伸子と暮した。五月で、夜どおしよしきり[#「よしきり」に傍点]が鳴いた。桐の花の咲いている田舎の家の日々は、佃との苦しい葛藤のうちに閉塞されていた二十六歳の伸子の、生活をよろこびたのしみたい慾望を開放した。単調な田舎の一日だのに、素子はおやつをたべるにしてもいろいろ変化をつけ、伸子はそんな場合、お客のようになった。そしてこういう暮しかたもあるかと珍しがった。
素子が東京へかえり、やがて伸子も動坂へかえって、二人の間には一緒に生活する相談がもち上った。
「ぶこちゃんは、要するに、わたしを方便につかうのさ」
その頃牛込に住んでいた素子は、下町風の家の二階で、そういった。
「そうかしら……わたしはそう思わないけれども――」
「思わなくったってそうなるさ。佃氏とはなれるのに、今のところわたしがいるのさ。よくわかってる。だから、一時の方便は、ごめんだっていうのさ」
「――わたしが、また誰かと結婚したいと思ってなんかいなくても?」
「――ぶこちゃんには、わたしの心もちなんかわからないんだ。わかりっこありゃしない」
素子が、わからない、わからない、ということは、かえって伸子にそれがわからなければならないような感情をもたせた。
素子と暮す話をきめてから、伸子は、二三日佃のところへ戻った。逃げたようなままで離別することは、伸子に心苦しかった。佃に会って、別れる結末をつけて、そして新しく素子と生活しはじめようと思った。けれども佃のところへ行ったら、伸子は又ほだされた。涙を流して生活のやり直しをしようとすすめる佃を拒絶しかねた。佃は、気をかえるためにと、それまで住んでいた家の、前のせまい通りをへだてた向い側の新しい二階家に引越しかけていた。伸子は、自分がそこにこれから住もうとは思わなかったが、佃にたいする最後の思いやりとして、その引越しを手伝った。引越しが終った日の夕方素子の家をたずねた伸子は、
「ああ、さわぎだった! 引越したの」
といいながら、坐った。
「引越し? だれが」
「わたしたちの家」
素子は、坐り直し、その二つの視線で伸子の顔をハッシとうつようにけわしく、
「だから、この間、いったでしょう。君に私の気持なんてわかりっこないんだ。馬鹿馬鹿しい!」
眼に涙を浮べた素子は、
「だから女なんていやだ!」
侮蔑と痛苦とをこめた声でいった。
素子の苦痛は伸子を畏縮させた。けれども、伸子のこころもちは、ぼうっと広く開いたままで、素子の切迫した激情の焦点に一致するようにしぼりが縮まなかった。そのことに気づいて伸子は一層素子にたいして気がひけた。
「君はよかれあしかれごく自然なひとさ。自然なだけ、ひどいめに会うのは私にきまってるんだ」
素子は伸子の方を見ないまま、
「いつだったか、いったろう? 私は、男が女を愛すように女を愛すたちだって。――あのとき、ぶこちゃんは、わかったようにあいづちうってたけれど、実際には、いまだってわかってなんかいやしないのさ。わからないのが、佐々伸子さ」
涙の粒が、素子の小麦色の頬をあとからあとからころがり落ちた。
「私に、ぶこちゃんの自然さがわかるのが、百年目だ」
伸子も泣いた。素子の苦しさがせつなく、自分が素子をそんなにせつない思いにさせた、それが苦しくて。――素子の手を自分の頬にもち添えて泣きながら、伸子は、それでもやっぱり自分の心が素子と同じ皿の上の同じ焔とはなっていないのを感じた。素子に誠実であろうとしている自分の心の偽わりなさは伸子にわかった。素子にもそれは通じている。それもわかった。しかし素子は、女はだからいやだ、とそんなに苦しむ。そのいやさを、伸子は自分の感情として自分に実感することが出来なかった。どっさりの黒い髪を頸の上につかね、小麦肌色の顔を苦しさに蒼ずまして伸子に向っておこる。その素子にわるい、と思う気もちばかりつよく感じられるのであった。
素子と伸子との感情生活は、独特な一つのかたちであった。素子にたいして、誠実であろうとする伸子の一般的なこころもちと、素子に、つよく意識されている伸子への傾注。それを理解し、自分たちの愛として素子のその心を傷つ
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