けまいとする伸子の従順さなどが、それであった。伸子には、二人の女の生活にある矛盾や混淆《こんこう》が、客観的にどういうものとして見られるかということはわかっていなかった。わからないままに、自分たちの生活から何かを覗き出そうとするような外部のいやしい興味に抵抗した。
伸子は竹村に対して、特殊の感情はなかった。よしんば竹村が、伸子にわかるような感情表現をしたとしても、伸子はそれで動けただろうか? この間、温室を見に行ったとき、夕飯の仕度をしながら、竹村と素子が手のことを話したときの微妙な感情の流れ、そこにも伸子は、自分の居場所から動けない自分の心を直感した。夕飯のあと、竹村は伸子に編物をするか、ときいた。
「なぜ?」
素子がきいた。
「いや、うちの奴は実にそういうことはしなかったからさ……女のひとなら、だれだって、編物ぐらいするのが普通だろう?」
竹村は、身辺に求めているうるおいのある情景の一つというようにそれをいった。伸子は、
「わたしも駄目なくちよ」
ぶっきら棒に答えた。伸子はそのとき、ああ、竹村も編物について佃と同じことをいうと瞳をこらすようにして思った。佃との生活の不調和がつのって、何事も手につかないような気持になって来た時分、佃の父親が上京した。伸子は二人の間のもつれを、白髯《はくぜん》のたれた七十近い老人に知らせるのを気の毒に思った。一つ燈の下に、老父と佃と三人で、話という話もなく、毎晩をすごす気づまりから、伸子は編物を思いついた。伸子は、少女の頃、桃色の毛糸で円いきんちゃく[#「きんちゃく」に傍点]を編んだきり、編物をしたことがなくて、二本の竹針ではうら編みしか出来なかった。それにかまわず、いろいろな色の毛糸を買って来て、伸子は老父の滞在中、毎晩編物をした。編目がじきのびて、みっともなくなってしまうにちがいない裏あみばかりで、義理の姪に当る小さい娘のために、九つほどの息子のために、赤と茶の頸巻きをあみ、霜ふりの太い糸で老父の腹まきを編んだ。竹のすべっこい針の先と先とが電燈に光りながら、弾力のあるかたさでぶつかりながら糸目をすくいだして来る軽い微かな響、こまかく早く単調な手さきの運動。伸子は、編むひとめひとめに、まぎらしようのない心の憂さと屈託とを編みこんでいるのであった。だけれども、佃は、激しい言葉をいわなくなって、手もつけない本棚の下で、赤い毛糸の玉をころがしながら編んでいる伸子の姿をよろこんだ。家庭生活《ホーム・ライフ》らしい。そして家庭的《ホーム・ライク》なときの伸子は美しい、とほめた。ほめことばは、編みものの上に伸子の涙をおとさせた。
伸子は、素子に、その話をした。
「だからね。わたしの場合一人一人の道具立てのちがいだけが問題じゃないのに……いくら違ったように見えても、男のひとたちの考えかたのなかには、どっか同じようなところがあるわ。そこがわたしには問題だのに」
「それゃわかってる。――ぶこちゃんとしては、ほんとにそうなのさ。それに関係なく私は不愉快だよ。私が女だもんだから、こんなにして暮している心持の真実を無視する権利が、男の自分にあるようにうぬぼれてやがる、そこがいやなんだ」
「対等に考える必要なんかないのに」
「私は、ぶこちゃんに都合のいい範囲で仕事をたすけてやって、都合のいい範囲で利用されて、おまけに虚栄心まで満足させるような、そんな便利な愛情なんか持てないんだ」
竹村は、そんなことがあってから伸子たちの家へ遊びに来なくなった。伸子は、竹村が来ることに特別な心持をもっていたわけではなかったが、素子の感情から彼が来なくなったとなると、来なくなったという面から竹村への意識がしばらくの間めざまされた。
伸子が素子と暮して小説をかき出したように、素子は、自分にもいい生活のはじまった記念のためにと、大部な翻訳に着手していた。傷つけられることに対して余り鋭敏な素子の感情が、そういうきっかけから、のびのびと確信をもつように、と伸子はねがった。二人の生活のうちに二人の女がそれぞれの発展を示して、豊富に充実して生きてゆけたら、素子が自分の感情傾向が特殊だという自意識から、わざとその面を固執したり、誇張している、そんないつも抵抗しているような神経のくばりがどこに必要だろう。伸子の感じからあからさまにいえば、それらはケチくささであった。伸子にはそのけちくささを自分たちの生活に含むことをきらう、つよい感覚があった。それは虚栄心というものだろうか。伸子を体裁屋と、いいきれることなのだろうか。――
伸子を折にふれて真剣に考えこませる問題があった。それは自分たちの今の生活が、はたして、本当に新しい意味をもった暮しぶりであるのだろうか、という疑いであった。小説を書くということについても。たしかに伸子はいくらか小説を書
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