きなれた。そのために発表の場面は不足せず、経済的にも小規模の安定がたもてた。書き終った長篇小説は、それとして伸子の人生を一歩前進させた。けれども、その長篇をかき終ったことで到達した境地からは、伸子は、また歩みぬけてゆくために必要な活力は、二人の日々に動いていないことを、伸子はぼんやりと、感じはじめていた。そして、その不安は段々ごまかしにくくなっている。素子の発案で、日々に何かの変化があっても、それは同じ平面上での、あれ、これの変化にすぎない。素子が何か気のかわることを計画するとき、同じ平面で動いているにすぎないという感じは、かえって伸子ののどもとに苦しくこみあげた。
 要するに夏になれば鎌倉に粗末な家でもかりて、そっちへ仕事をしにゆくとか、ナジモ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]の「椿姫」を見のがさず、日本橋でうまい鰆《さわら》の白味噌づけを買い、はしら[#「はしら」に傍点]とわさびの小皿と並べて食卓を賑わすとか。素子はそういうことによく気がつき、それをやかましくいい、又たのしみ、生活の価値の幾分を見出しているようであった。素子が細々とそういう細目で毎日をみたしてゆくとき、伸子は受け身にそれに応じながら、素子は、こんなことで生活が充実するように思っているのではないか、と不安になって来るのであった。
 一つ一つの日に変化があるようでも、実はその変化そのものが単調なくりかえしだと感じられる時があった。その単調さの感じと、伸子が、自分の小説は一つ地盤の上の、あれこれに過ぎないと不安をもって自覚しはじめた時期は一致していて、平らな池の底におこった渦のようなその感覚は、笑っている伸子の笑いの底に、素子の関西風な献立で御飯をたべている伸子の心の奥に、音をたてずにひろがり、つよくなりまさった。
 いま二人で営まれているこの生活は、佃が妻である伸子との生活に求めた平凡な日々と、どれほどちがっているだろうか。伸子にとって、それは辛辣な自分への質問であった。佃は男で、そして良人であるということから、彼との生活にはいつも溌剌として、生きるよろこびの溢れた感動を要求し、この生活は、自分でもっているものだから、同じ凡庸さでも意味ありげに自分に感じようとしているのではないだろうか。蕗子がこの間来て、友達の就職の相談があったあと、伸子がいい出した、婦人の一応の経済的独立の、そのさきにある目的についての疑問も、伸子の実感には、きのうきょうでない根をもっていることなのであった。
 それに、素子は、女のひとにたいする自分の感情のかたよりを枢軸に自分の人生が動いているように思っている。しかし、そのことについても疑問があった。日常生活での素子は、伸子より遙かに常識にたけていた。世間なみの日々のさしくりを忘れず、二人の収入から集金貯金をかけているのも素子であった。義理がたく、律気であり、人のつきあいに真情を大事にした。それらは、どれ一つをとっても最も普通であった。女のひとに対してもつ感情のうちの、分量としては小さい特殊さを、素子は男への反撥のつよさで誇大して、自分からそこにはまりこんでいるのではないだろうか。
 伸子とは二つ三つしか年上でない素子の二十前後の時代は「青鞜」の末期であった。女子大学の生徒だの、文学愛好の若い女のひとたちの間に、マントを着てセルの袴をはく風俗がはやった。とともに煙草をのんだり酒をのんだりすることに女性の解放を示そうとした気風があった。二つ三つのちがいではあったが、そのころまだ少女期にいた伸子は、おどろきに目を大きくして、男のように吉という字のつくペンネームで有名であった「青鞜」の仲間の一人の、セルの袴にマントを羽織った背の高い姿を眺めた。その女のひとは、小石川のある電車の終点にたっていた。
 互の誠意の問題としていい出されることであっても、伸子の女の感情にとって、それはありふれた小心な男のいうことと同じだと映るような場合、伸子は悲しく、そして容赦なく、自分たちのまねごとじみた生活の矛盾を感じた。素子が、男性への反撥で、皮相的に女らしくなくなっていながら、一方で、平凡な男が女に向ける古い感覚に追随しているのだったら、女が一組となって暮す新しい意味は、どこにあるだろう。
 こういういろいろの心持を、伸子は素子と率直に話せなかった。伸子には、そのいろいろな心持の内容がまだ十分自分にも見わけられていなかった。それに伸子は日頃の生活のならわしから、素子が激怒するのがこわかった。女はだからいやだ、という伸子にとって実感しにくい、素子の噴火口が、そこに火焔をふき出すことをおそれるのであった。

        十

 婦人欄を早くから設けていることが特色とされているある新聞社が、中国から来た女学生の日本見学団を招待して茶話会を催した。日本側の婦人
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