病気で、晩年はヤルタにばかり暮していた。芸術座の主役女優であった若い妻のオリガは演劇のシーズンの間はモスコウに暮した。チェホフはその妻に、実に親切に俳優勉強のための忠言を与え、良人としての励ましを与える手紙をかいた。チェホフらしく、感情に誇張のないユーモアと、父親のような愛と、芸術家の気骨の湛えられているそれらの書簡は、素子の気に入って、すでに一年近く翻訳にかかっているのであった。
「日本流にいえば、よろしくってわけだろうが……」
「でもただ、よろしくじゃ口のさきだけのようね。お辞儀するっていうロシアの人らしい動作の面白さがうつらないわね」
 伸子は、一月頃築地小劇場ではじめて見たゴーゴリの「検察官」の舞台のおもしろさを思いおこした。あの舞台はなんと明暗がこくて、新鮮で、印象深かったろう。
「――よわったな……」
 こちらの部屋で伸子も机につき、最近書き終った長篇小説の綴じ合わせをよみはじめた。佃の家を出て、二階借りの生活から、駒沢のこの家へ来た二年目の冬まで、伸子はその小説を書きつづけた。それは、少女の心をぬけきらなかった伸子がニューヨークで生活しはじめ、佃と結婚しそれが破壊されたいきさつを追った作品であった。五年の間苦しみながら自分として生き甲斐のある生存を求めて来た道を、そうやってたどり直して見るしか伸子には新しい一歩の踏み出しようがなかった。動坂のうちにとって、伸子が、はっきり外にいる娘の立場に立つようになったのも、その小説とつながりがあった。多計代は娘の書く小説を一行一行よんだ。そして女主人公の母親として登場する人物を、現実の自分とてらし合わせ、感情を害するたびに、伸子を動坂へよびよせた。呼ばれるごとに、伸子はせつない表情をして多計代の腹立ちをきいた。お前は冷酷だ。そういわれた。エゴイストは、自分だけ満足ならそれでいいのだろう。そう罵られた。越智との交渉が深まってから、多計代の心持は、伸子にたいする越智の批評を柱として、なお複雑となり固定した。調和的な天性の佐々は母娘の争いにくたびれて、
「伸子、もっと空想の、美しい小説を書きなさい、え? お前は書ける人だ、あの素晴らしい色彩で、さ」
といった。伸子は、そういわれると、目に涙をため、父親の分厚い、節に毛の生えている温いなつかしい手を自分のほてる掌でおしつけた。佐々が、無邪気にほめて美しい色彩という作文は、伸子が十五六の頃、小学校の同窓会雑誌に書いた、幻想的な作文のことなのであった。伸子は二十九歳になっていた。どうして、十五の少女のこころにかえることが出来たろう。伸子は、煙にむせて窒息しかけながら、そのトンネルはぬけきることを決心した者のように、小説を書きとおした。小説は、ある先輩の婦人作家のところで、偶然素子と知り合うところで終り、佃との破局的な情景が最後に描かれていた。
 片手を机の上へ頬杖につき、右手で雑誌から切りとったその小説の綴じあわせをめくりながら、伸子の面には、徐々に、しかしまぎらすことの出来ない力で迫って来る沈思の色が濃くなった。
 その小説をかき終って、伸子は一つのまじめな事実を学んだ。それは、佃も、女主人公の母も、女主人公そのものも、一人として悪人というような者はその関係の中にいなかった、ということである。佃にしろ、時と場所とをへだてて一人物として見ればむしろ正直な人であったことがわかった。多計代が、どういう男を好む性質かというような効果を捉えて行動したり、伸子への感情の表現を、多計代の気にもかなうように粉飾したりすることを、佃は知らなかった。越智の存在とその多計代への影響のありかたを見くらべると、今伸子には佃のぎごちない、光のとぼしい正直さが理解された。佃が正直であったということについて、伸子は、女としてもっとも機微にふれた発見をしていた。二十を越したばかりであった伸子は、ほとんど倍ほど年長の佃と結婚しようと決心したとき、母になることを恐怖した。子供をもつということが、本能的に警戒された。佃は伸子のその不安について約束したことを、一緒に暮した最後の場合まで守った。離れようとしてまたひきもどされる夫婦の、暗い激情の瞬間に、佃がそのときを利用しようとすれば利用出来たいくつかの機会があったことが思われた。しかし、佃は苦しい蛾のように伸子のまわりに羽ばたきながら、約束は破らなかった。伸子を自分の子の女親とすることで、自分にしばりつけようとはしなかった。
 伸子が佃の家を出て半年ばかりたったとき、伸子にたいして憤慨した佃の友人たちが、佃を最も幸福にしてやれると思われた一人の婦人を紹介して、佃はその人と結婚した。今度は、どうしても子供をもつことだ、と決めたということを、伸子は、どこからともなく吹きまわして来た話として聞いた。
「それもよかろうさ」
 素子はその
前へ 次へ
全101ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング