話が出たとき佃の凡庸さにふさわしい、という風に短く笑った。伸子は、黙って、庭の竹の葉が風にそよぐのを眺めていた。
 佃が伸子をその中に守ろうとしていた家庭の幸福というものは、若い伸子が求めてやまない、生きているらしい生活というものとは、決して一致しないものだった。さらに多計代が熱望している佐々家と伸子との繁栄、名声というようなものと、佃の生活目標はちがっていたし、伸子の願望ともかけはなれていた。三様の人生への願いが巴《ともえ》となって渦巻き、わき立った。
 佃とわかれ、長い小説としてまたその生活を生きかえした伸子は、二度目の結婚とか、家庭生活とかいうことについて、素子との暮しのうちに出没する男の誰彼を連想することは全然不可能であった。伸子のこころとからだとの中にあって、伸子をひとつところに止まらせて置かない力、それを伸子は何と名づけたらよかったろう。どう処置していいのかさえ、わかっていなかった。世間で、結婚や家庭生活を、人間生活の一つの安定ときめてそのように形づけ内容づけるとき、きめられた安定におさまれない一人の女が、ただのくりかえしとして次の対手を求め、家庭生活をくりかえして見たいと思う、どんな必然があるというのだろう。
 伸子は、生れつきのうちにある人なつこさや子供らしい信頼や大まかさを、日常生活の細目はみんな素子にまかせきった今の形にあらわして生活していた。男のように口をききながら、実際のこまごましたことはみんな自分でとりまかなわなければ気のすまないきわめて女性的な素子にたよって、伸子は小説をかきつづけて来た。
「伸ちゃんという人は、一体どういう性格なんだか、私には理解出来ない」
 老松町へ家をもったとき、訪ねて来た多計代が、あとから苦々しげにいった。
「まるで、吉見さんという人が、旦那様みたいじゃないか、一から十までお前に命令してさ。経済だって、あの様子ではどうせ吉見さんが支配しているんだろう。一旦信じたとなると、伸ちゃんは盲目だ」
 伸子は、苦笑いした。伸子は二人の家計の一切を素子にやって貰っていたし、自分の収入も自分でもってはいなかったから。
「いいのよ、私より上手で、すきな人がすればいいのよ」
 小説の綴じあわせを読んでいるうちに、伸子の表情に濃くなりまさるかげは、この平穏な郊外の女ぐらしの家に流れる生活について、伸子の心にいつしか芽ぐみはじめた疑いがあるからであった。
 あまり永くしん[#「しん」に傍点]としていたのに心づいて、急に不安になったように、
「ぶこちゃん」
 となりの部屋から素子が声をかけた。
「いる?」
「――いる」
「斎藤へ筍ほりによこせっていってやらないと、またあとで細君がうるさいね」
 その家は斎藤という軍人のもち家なのであった。
「……そうね」
「あしたでも、とよに持たせてやろうか」
「それがいいかもしれない」
 素子にその感情をかくすというのではなく、伸子はおだやかに、言葉すくなく襖越しの応答をした。地平線のかなたにひとかたまりの雲が湧き出した。青く晴れた空のひろさにくらべて、その雲のかたまりはごく小さくて、それを吹き動かす風も立っていないとき、その雲のかげについて、伸子はなんと話すことが出来るだろう。柘榴の幹をすべって、細かいその葉を梳きながら、郊外のごみのない日光が芝生にひろく射している。陽の明るさに向って瞳をほそめながら、伸子は頬杖をついたなり、じっと心の地平線に見えはじめている小さい雲のかたまりを見つめた。

        六

 土曜日の午後のことであった。
 伸子たちのすんでいる駒沢の奥の家の、裏に向った四畳半で、ロシア語の稽古がはじまっていた。
 伸子が、老松町の足袋屋のよこを入った路地のお裁縫屋に二階がりをしていたとき、その部屋は東も西も、二間のガラス窓であった。寒いのと光線が多すぎて落ちつかないのとで、伸子は暖い色どりで釣鐘草の花模様を染め出した厚い更紗を買って来てカーテンにした。その更紗が、この家では小蒲団の上おおいになって、ニス塗りの長椅子の上に可愛い長クッションのように置かれている。伸子と浅原蕗子が、行儀よい女学生のように並んでそこにかけていた。素子は、一人はなれて横の籐椅子にかけ、小テーブルをひかえている。三人のまえに、ベルリッツの緑色表紙の教科書と帳面とがあった。外国人のためのロシア語と、題がついている。その本のはじめのところが開かれて、素子が、すこしかすれるような特徴のある声で、それは何ですか? それは鉛筆です。どんな鉛筆ですか? という、簡単な問答をロシア語で、ゆっくり読んだ。
「浅原さん、よんでごらんなさい」
 先生らしく素子がそういった。蕗子は、膝の上にひろげていた本をとりあげ、ふっくらとした色白の鷹揚《おうよう》な口元を、馴れない発音のために緊張さ
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