に来ていた。
「うちでなく……」
「遊びに来たいっていうのに、ことわれないよ」
「ただ遊びに来るだけはいいけれども」
素子は、しばらく伸子の顔を見ていたが、
「そうか」
といった。
「――東京じゃ、自然聰さんがとりもち役になるさ」
おつまさんからの手紙をもって、素子は自分の机の方へ立って行った。
五
素子の大きい勉強机の上に、厚ぼったい洋書が、終りから三分の一ぐらいの頁をひらいてのせられていた。頁の上には、鉛筆でところどころにアンダ・ラインがひかれてい、書きこみがつけられ、本の角は少しめくれかかっている。松屋の半ペラ原稿用紙の書きかけが並べておいてある。
となりの六畳の、洋風机の根っこの畳に坐って、伸子は新聞をひろげていた。芝生の庭の真中に、先住の人の子供たちがこしらえた土俵の跡があり、そこだけまるく芝がはげている。門と庭との境には、いかにも郊外分譲地の家らしく垣根がなくて、樫だの柘榴《ざくろ》の樹だのが、門から玄関へ来る道の仕切りとなっている。伸子が新聞をひろげているとこからは、丁度その柘榴のあたりから、庭の端の萩のしげみが見えるのであった。動坂の家のように、すぐ荒らびや生活の推移が見えるつくられた庭より、あっさりとしていて、雑草も季節の賑わいになるような借家の庭が、伸子に気やすい感じだった。去年、夜行で京都から帰って来た朝、伸子は二階のはしごの上から下まで滑りおちて、階段下の板をへし折るほどからだをうった。その時住んでいたのは、老松町でも、お裁縫やの二階ではなくて、アメリカの宣教師たちが住む古くから有名な洋館の近くであった。その家のせまいはしご段を、伸子はスリッパをはいたまま降りかけて、スリッパの踵が滑ったとたん、はっと思う間もなく下までおっこちた。その時から伸子の左の耳に耳鳴りがはじまった。小さいモータアが鳴るような音がしはじめた。素子が、二階のない、もっと閑静なところへ住むことを提案して、門のわきに栗の木の生えているここへ引越して来たのであった。
その朝の「朝日」には、一頁をそっくりとって「福助足袋の生い立ち」という岡本一平の漫画広告が出ていた。様々の工程を経て、足袋の頭をした福助が買い手の前にまかり出るまでの道ゆきが、のんびり漫画でかかれている。南縁からの陽のぬくもりで新聞のインクの匂いがいくらかつよくにおう。ひろげた新聞の上に、伸子がかがんでいると、歩いて来たままの調子でたたきへ下駄をぬぎすてるようにして、素子が外から帰って来た。そして、
「――ばかにしてら!」
手にもっていたがまぐちを伸子の机の上に放り出した。
「かからなかったの?」
この辺に電話をかりるところがなかった。素子は電車の停留場のそばまで行って、聰太郎のところへ電話して来たのであった。
「かかりましたがね、おつまは来ないんだってさ」
「――……」
伸子には、それを残念という風なあいづちはうてなかった。
「都合がわるくなったのかしら……」
「さあ、どうしたんだか。痴話喧嘩でもして気がかわったんだろう」
ふところでをして、縁柱にもたれ、素子はまた、
「ひとをばかにしてる!」
といった。そして、むっとした口もとをした。
「いいじゃないの、私は書くものがあるんだし、あなたの翻訳だって、もう一息のところなんだもの……」
「ぶこちゃんは、ああいう連中に偏見をもってるから、そう思うだろうさ。だけれど、ばかにしてるじゃないか。ああやって手紙よこせば、私がそれに対して放っておける人間かどうか、おつまは百も知りぬいているくせに……聰さんのところへ電報よこすなら、当然、こっちへだってよこすべきさ」
「聰太郎さんのところへは電報が来たの?」
「そうだとさ。きのう来たそうだ。――おつまみたいな女でさえ、そういうやりかたする、だからいやさ」
永年のつき合いのおつまが、素子の実意を軽くあしらい、そんなことでもおのずから男の聰太郎と女の素子との間の取扱いに差別をつける。その点を素子は立腹しているのであった。素子には、対人関係で、傷つきやすい性格があり、
「動坂のお母さんみたいに、情熱なんて、私は真平《まっぴら》ごめんだ。こまやかさがなくて、人間、どこにいいところがあるんだ」
毎日の生活の中にも、伸子がこれまでの暮しでは知らなかった、細かい素子の感情があるのであった。
しばらく柱によりかかっていた素子は、やがて隣の部屋へゆき、きれいな、えんじ色にすきとおったパイプにたばこをつけ、それをくゆらしながら自分の机に向った。原稿の綴じたのをよみ直す気配がした。
「ぶこちゃん――いるかい?」
「いてよ」
「この、手紙の終りにいつもついてる、誰それにお辞儀して下さい、って文句ね、直訳だとそうしかいいようがないんだが、何だかしっくりしない」
チェホフは
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