の感情の波を見ているのでもないのであった。
「ぶこ[#「ぶこ」に傍点]ちゃん」
素子はれんじ窓のところへ腰かけて伸子をもじった愛称で呼びながら、注意ぶかく伸子を見た。
「動坂へゆくと、いつも暗い顔で帰るね」
「そうお」
「――まあ、どこでも親のうちなんてそんなもんだがね」
関西の古い都会の女学校を出ると、素子は女子大学に入学して、それ以来ずっと自分だけ東京暮しをつづけていた。魚問屋であり、資産家である吉見の主人は、素子とその兄妹とを生んで亡くなった妻の妹を、現在妻として暮していた。そのひとを、素子はおさわさんという名で呼んだ。ときによると、おさわと呼びもした。そのひとと父との間に生れた弟や妹たちに対して、素子はちっとも偏見を抱かなかったし、父のことを話すとき、眼に涙をさしぐますこともあった。しかし、素子は、父の家に対する生きた抗議としての自分の存在を、決してかえようとしていないのであった。
「お父さん、花をおよろこびになったろう?」
「それが、がっかりよ、出張なの」
「へーえ」
素子は、すぐ、ひらめく何かがあるという眼つきをした。けれども、伸子が真面目に沈んでいるのを見て、そのまま黙った。素子のいいたいことは、伸子に同じはやさでわかった。「出張」は市内でも出来る、というわけである。もう三年ほど一緒に暮したこの頃、伸子はそういう頭の働きかたをむしろ素子のマンネリズムと思っているのであった。
「おとよさん、おとよさん」
庭に面した座敷へ行った素子が呼んだ。
「きのう貰った五家宝《ごかぼう》切っておいで、お茶も願いますよ」
やっとわが家でくつろげるという風に、伸子は子供らしい顔つきになって好物の五家宝をたべた。
「妙なものが好物なんだなあ」
素子は、新しくたばこに火をつけ煙に目を細めるようにしていたが、
「ああ、おつまはんから手紙が来ているよ」
その室の角に置いてある洋風の大テーブルから、しゃれた手すきの封筒をもって来た。
「みてごらんよ」
伸子は、それを手にとらず、
「何だって?」
ときいた。
「近いうちに東京へ来るんだってさ。少しゆっくり滞在するから、是非遊びによらせて頂くとさ」
「ここへ泊るのかしら」
伸子は、困ったようにきいた。おつまはん、というのは祗園のある家の女将であった。ずっと前から素子とはかなり立ち入った友達つき合いで、前の年の早春二人がゆっくり関西旅行をしたとき、素子はこのおつまはんの斡旋で高台寺の粋な家を宿にした。その宿へは素子の従弟に当る縮緬《ちりめん》問屋の若主人だの、里栄、桃龍だのという賑やかな人たちが毎日出入りした。伸子は、相変らずの学生っぽい白襟のなりで、自分一人だけの東京弁を居心地わるく感じながら、はにかんで、色彩の入り乱れたその仲間に坐っていた。素子は、小説を書こうという人間が、何さ! と、屋台の寿司を食べたことのなかった伸子を、そういうなかに引き入れるのであった。伸子は、それを口ぐせに自分が育てられた道徳論を肯定していなかった。女にあてはめられる生活の常識にも本能的に抵抗していた。そうではあるが、素子が格別疑問もなく習慣としているおつまさん仲間との饒舌な、馬鹿笑いの多い遊びづき合いにも、とけこめなかった。すぐ飽きて倦怠した。
「おつまさん、ここへ泊めなけれゃいけないのかしら」
気がかりそうに伸子は、くりかえし質問した。
「泊るのはどうせよそだろう、あのひとのことだもの。一人で来るんでもあるまいし、……だけれど、来たら放っちゃおけないよ」
この家へ、おつまさんが京都からもって来るある空気が吹きとおるのだろうか。高台寺で、素子が酔った晩、桃龍たちがよってたかって素子に、里栄の派手な青竹色の縞お召の着物をきせ、紅塩瀬に金泥で竹を描いた帯をしめさせた。浅黒い棗形《なつめがた》の素子の白粉気のない顔は、酔ってあか黒く脂が浮いて見え、藍地に白でぽってり乱菊を刺繍した桃龍の半襟の濃艶な美しさは、素子の表情のにぶくなった顔を、ひときわ醜くした。素子は、なんえ、これ! かわいそうなめにあわさんといてくれ、頼むぜ、といいながら、その青竹色の着物の褄をとってはしごをよろめき下り、せまいその家じゅうをぞよめきまわった。「黒んぼの花嫁! 黒んぼの花嫁!」そう叫んでさわいでいる桃龍たちの声を二階でききながら、伸子は、とりちらされた広間の床の間のかまちにぽつねんと一人腰かけていた。まともな誰のめにも醜く見える素子を、ああやって囃《はや》し、その様子に笑いこけている人たち。それを不愉快に感じるのは、野暮だというこういう世界のしきたり。伸子は、暗いこころで痛烈にその雰囲気を嫌悪した。
「おつまさんが来たら聰太郎さんにたのんで、どっかよそでもてなしましょうよ」
従弟の聰太郎は、東京の支店づめで日本橋のそばの店
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