ン夫人がどうかしたの?」
「いいえねえ、越智さんが、ゲーテとシュタイン夫人のようなつき合いが理想的だっていったからさ」
伸子は、多計代の素朴さを悲しくきいた。父と母とは、宮廷附の調馬師夫婦で、越智はゲーテの立場というのだろうか。
多計代にとって意味のはっきりつかめない越智の衒学や議論は、情熱的な亢奮や文学趣味を好む多計代に対して肉感的な魅力とすりかえられている。だが、青年の保に対して、越智はどう作用しているのだろう。伸子は、その疑いをつきつめてゆくと、せっぱつめられる苦しい気がした。越智という人物が保の家庭教師に選ばれたことは、一つの間違いであったように思えた。越智のアカデミックによそおわれた深刻ぶりは、保の生れつきを青年期の憂悶から解放し、引き出さないで、かえって青年同士のてらいと覇気と成長力とがまじりあった旺盛な議論を、議論のための議論として保にきらわせるような妙な逆の形で観念の道へ引きこんでしまったのでないだろうか。
伸子は保に対する心痛と自分の非力さを思って、涙ぐんだ。伸子も伸子なりに、力の限り生き、育たなければならなかった。保のために選ばれる家庭教師について考えてやるゆとりはなかった。佃との生活がもってゆけない苦闘で、あぶられるような日々を送っていたとき、中学四年生の保の家庭教師について考えてやれなかった。越智圭一は、大学の助手で、佐々と同郷のある博士の研究室から、佐々の家庭に推薦されたのであった。
伸子は、保のからだを自分のこころの力でおすような思いでいった。
「保さん、和一郎さんとあなたとは、まるで性格がちがうんだし、私だってずいぶんちがうわ。うちの中だけでは私たち育ちきれないのよ。フレームから出なければ、駄目なのよ。土の新しいのがいるのよ。だから、本当に友達を見つけなさい、ね。越智さんが、こんなに永年つき合いながら、そういうことをあなたのような人にいって上げないなんて、あんまりだわ」
「越智さんは、越智さんとして、いろいろいい話をしてくれる」
「だって」
なお、はげしくいいかけたところへ、
「ごめん下さい」
襖の外から女中が声をかけた。
「奥様がおよびでございます」
「…………」
「だれに?」
保がききかえした。
「伸子さまに……」
「――すぐ行きます、からって……」
そろそろ伸子が立ちかけると、保もそれにつれて立上った。
「僕も一緒に行っていい?」
「もちろんよ」
前後してその長四畳を出るとき、うしろから、保が彼よりも背のひくい伸子の頸すじに、
「お母様はね、僕が姉さんと話していると、あとできっと、なにを話していたのかってきくの」
と低い声でいった。
四
翌日の朝のうち、伸子は、沈んだ気持で郊外の家へかえって来た。門をはいると、台所ぐちの方で、
「それゃあ、あんまりですよ奥さん! みて下さい、このピンピンですぜ。河岸だって、この位のものを仕入れる者ア、ざらにゃいねえんだからね」
といっている魚屋の若いものの声がした。
素子がひやかしながら魚を買っている様子だった。素子は自分であれこれと選んで、気に入った魚を買うのが好きだった。
伸子は、玄関からあがって茶の間をぬけ、台所の板の間へ顔を出した。
「ただいま」
「ああおかえり」
素子のもっている吸いかけの煙草から、ひとすじの煙がゆるく立ちのぼって、それがかすかな風で日向に流れている。
伸子は玄関わきの六畳へ行って着がえをはじめた。そこへ素子が入って来た。
「動坂、どうでした?」
佐々の家を、伸子たちはその家のある町の名でよんでいるのであった。衣桁《いこう》にほどいた帯をかけながら、伸子はあいまいに、
「そうねえ」
といった。
「相変らず、か……」
いくらか皮肉に素子がそういって軽く笑った。多計代と素子とは、互にまるで派があわない性格の二人の女であったし、動坂の家の気風も、伸子たちの生活気分と根本からちがった。動坂の家に一泊して来ると、伸子の心にはいつもずっしりと重い幾つもの感銘と、とけない不安とがのこされた。しかし、それは素子に一つ一つは話されなかった。特に、多計代の感情の状態と、それについて、自分の感じることごとには口をつぐんだ。素子の専攻は外国文学であったけれども、現実の周囲で錯綜する男女の間のいきさつにたいして、素子はいつも一種辛辣な幻想のない態度をもっていた。素子のその皮肉や辛辣さが、伸子にとっては、佃との生活の沼からぬけ出る手がかりとなったのであった。しかし、娘として伸子は、多計代のこころもちには、素子のその調子で立ち入って欲しくない気持があった。伸子は、多計代の激情的な傾きに同感していないし、それを苦痛に感じているが、それかといって素子が聞いたらひとくちに冷笑するであろう、そういう風なものとしてだけ母
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