った。もしかしたら、保は、多計代と伸子との一致点の見出せないいい合いに食傷して、何につけ議論したりすることの嫌いな若ものになったのではないだろうか。伸子は、保が、姉の生活態度のすべてに同意しているのではないことも改めて考えた。伸子が家を出てから佃が入院していたことがあった。そのとき、保が、一人で自分が咲かせた花をもって幾度か佃の見舞に行っていた。ずっとあとから、多計代からそのことをきかされた。
「わたしは保さんのような生れつきでないし、一緒にすんでいるのでもないから、心配したって保さんの役には立たないのかもしれないわ。でもね、……保さん、あなた本当に何でも話し合える友達、あるんでしょう?」
「沖本なんか、今でも時々会っているし、いろいろ話す」
「ああいう人じゃなくさ!」
伸子は、もどかしげに力をこめて、大柄だがなで肩で、筋肉のやわらかい保の温和な顔を見た。沖本は中学時代の友人で、地方に病院長をしている父親は上京するごとに、保を招いて息子と帝国ホテルのグリルで御馳走をした。佐々夫婦と自分たち夫婦とが二人の息子を挾んで会食したりした。そういう雰囲気の交際であった。
「高等学校って、わたしがよけいそう思うのかもしれないけれど、一生つき合うようなしっかりした親友が出来る時代なんじゃないの」
「…………」
保は、こまかいふきでものが少しある生え際を、まともに電燈に照らされながら、大きい絣の膝をゆすっていたが、やがて、
「僕のまわりにいる連中って、どうしてあんなに議論のための議論みたいなことばかりやっているのか、僕全く不思議だ」
述懐するようにいった。
「だって――それゃそうなるわよ。一つの問題が片づかないうちにまた次々と問題はおこるんですもの……」
「そうじゃあないよ」
独特のあどけない口調で否定した。
「ただ自分がものしりだっていうことや、沢山本をよんでいることを自慢するためにだけ議論するんだもの、皆をびっくりさせてやれ、というように、むずかしいことをいうだけなんだもの……」
「そうかしら……そういう人もあるだろうけれど……」
伸子は椅子の背にもたれ、少しやぶにらみになったような視線で保をじっと見守っていた。そして、思い出した。それは、保が赤い毛糸の房のついた帽子をかぶって小学校へ通いはじめた、二年生ぐらいのことであった。多計代が、おどろいたように、崇拝するように、
「保ちゃんて、大した子だ」
そういって伸子に話した。保が通っていた小学校は師範の附属で、春日町から大塚へ上る長い坂を通った。その坂は、本郷台から下って来て、またすぐ登りかかる箇所であったから、電車はひどくのろく坂をのぼった。ある朝、保がそういうギーギーのぼるのろくさ電車に乗っていると、それを見つけた同級生たちが、面白がって電車とかけっこをはじめた。ほとんど同じくらいに学校についた。ハア、ハア息をはずませながら男の子たちは先生! 先生! 僕たち電車とかけっこして来たんですよ、と叫んだ。そしたら先生が偉い、偉い、とほめた。「でもお母様、僕、ほめるなんて変だと思うなア。そうでしょう? 人間より早いにきまっているから電車を発明したんでしょう。心臓わるくしちゃうだけだと思う、ね、そうじゃない?」子供の保はそう考えたのであった。
伸子は、今保と話していて、幼かったころの電車の一つ話をまざまざと思いだした。電車と男の子たちとのかけっこについて保の示した判断は、子供として珍しい考えかたに相違なかった。けれども、今、机の前にゆったりと掛けている青年の保が、同級生たちを批評している、その批評と同じように、本当のところもあるにはあるが、どこかでもっと大切なピントがはずれているように思えるのであった。
伸子には、自然と越智という人物と保との関係が思われた。保は越智を衒学《げんがく》的と思っていないのだろうか。議論のための議論をしない人と感じているのだろうか。師弟関係がなくてむしろ若い女の感覚で越智をうけとっている伸子は、彼を衒学的な上にきざな男と思っていた。多計代が伸子に、
「伸ちゃん、お前シュタイン夫人て知っているかい」
そうたずねたことがあった。伸子は、
「シュタイン夫人て――」
見当のつきかねる表情をした。
「調馬師の夫人ていうシュタイン夫人のこと?」
ゲーテとエッケルマンの対話が訳されて間もない頃で、一部にゲーテ熱がはやっていた。多計代がゲーテと情人関係のあった宮廷調馬師の細君に、なんのかかわりをもっているのであろう。多計代は、素朴に、
「大変きれいな人だったんだってね」
といった。伸子は笑い出した。
「ゲーテをアポロっていうような人たちは、ゲーテのまわりの女のひとを、みんな女神みたいに思うのかもしれないわ」
「そういう皮肉をいう」
「――でも、どうして? シュタイ
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