感じた。皮膚の滑らかな多計代の顔は、ふっさりした庇髪の下に上気して匂うような艶をたたえている。いつもより、しばたたかれるまつ毛はひとしおこまやかで、多計代の大柄な全身から、においのいい熱気がかげろい立っているようにさえも見える。溢れるつややかさと乱れのまま多計代は娘と息子とが待っている食卓に来て坐った。
「お待ちどおさまだったね」
そういったきりで、たべはじめた。さっさと、味わおうとせずにたべはじめた。自分がどんなに咲きいでているか、それを知らず、また、かくすことも知らず大輪の花のように咲き乱れている母。多計代の右手の指に泰造からおくられて愛用しているダイアモンドがきらめいていた。それは多計代の全体によく似合った。食卓は煌々《こうこう》と灯に照らされていて、多計代の手がこまかく動くごとに蒼く紫っぽく焔のような宝石のひらめきが走った。
ほとんどくちをきかずに三人の食事が終った。越智のところから下げられた膳が廊下を台所へ運ばれて行った。
多計代は、そこに保も伸子もいないような遠い目つきで、正面のドアの方を見ながら茶をのみかけていたが、急にそのまま湯呑みを食卓の上へおいて、洗面所の方へ立って行った。そのあとの空気の中になお熱っぽさと微かないい匂いとがのこった。その匂いをかぎしめるようにしていた保が、和毛のかげのある青年の顔を、伸子の方へゆるやかに向けて、
「お母様、なぜだろうね」
といった。
「越智さんが来るときっと洗面所へ行って白粉《おしろい》をつけるの」
本当にいぶかしそうに、全く子供のようにそういった。伸子は瞬間何といっていいのかわからなくなった。母は知っているだろうか。彼女の秘蔵の保の、こんなこころを知っているのだろうか。
「保さんの部屋へゆきましょう、ね、いいでしょう」
伸子は、母と保と二人へのいじらしさ、せつなさ、越智への嫌悪で、熱でも出る前のような悪寒を感じた。
保が机に向ってかけ、伸子は、小さな折畳椅子をのばして机の横にかけた。保らしく、注意ぶかく電燈の位置が按配されていて、小さい紙が眼への直射をさえぎるように下げられている。見ると、机の上に自分だけの日課表があるだけでなく、うしろの本箱の上の鴨居に細長く紙がはってあって、それが、日課の進行表になっていた。青と赤との鉛筆で、それぞれ違った長さの横線がひかれている。
「保さん、どうしてこんなにキューキューやるの?」
伸子は、少しあっけにとられてその表を見た。
「みんなこんなことしてやしないでしょう? この前来たときは無かったわね」
丁寧に鉛筆のしん[#「しん」に傍点]を削りながら保が、
「僕、この頃時間を無駄にするのは下らないことだとつくづく思ったんだもの」
といった。
「それはそうだけれど……」
伸子には保がこの家の生活の中にあって日々夜々感じているにちがいない複雑な心持、それに対する青年らしい批評のきびしさがわかるように思えた。保は、自分の暮しで、この家の中に、いいと思える暮しかたを作り出そうとしているらしかった。保の室の入口に書きつけられている Meditation という文句が、新しい意味で伸子のこころにせまった。教科書と園芸の本ばかりが詰っていた本箱に、今みれば「出家とその弟子」という戯曲がまじって背を見せている。Meditation ――伸子は、一層そのモットウに警戒を覚えた。
「あの本、どこにあった? 古い本だわ、わたしが昔よんだんだもの」
その時分も評判ではあったが、感傷的な戯曲としてもまた有名であった。
「面白いと思う?」
「さあ――でも、僕わかるような気がするな。あの戯曲のいっているように、何ごとも許す心持って尊いと思う」
「ね、保さん」
伸子は、つき動かされたように保の絣の筒袖に手を置いた。
「あなた、もっとお友達とどしどしおつき合いなさいよ。あなたのようなひとは問題をどっさりもっているにきまっているんだし、ここの家は問題をもっている家なんだもの――それでいいのよ。だからどんどん話して、議論して解決していらっしゃいよ。それでなくちゃいけないわ」
「うん……でも僕、あんまり何でもしゃべる奴きらいなんだ」
伸子は、身をとがめられるような内省的な眼差しになった。伸子が佃と結婚したのは、保が麹町の方にあるフランス人経営の中学校へ入学する前後のことであった。それから、離婚するまでの数年間、佐々の家は「伸子の問題」を中心に議論の絶え間がなかった。少年の保のいるのを忘れて、母と娘は互いに涙をこぼしながらいい争ったことがあった。おとなしい灰水色の制服のカラーに金糸でオリーヴの葉飾りをぬいとりした服をつけた保が、
「姉ちゃん、どうして結婚なんて、したの?」
結婚という言葉を、旅行とか病気とかいう事柄と同じような感じでいって、歎息したことがあ
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