老松町を引こしてからの自分の生活を話した。久地浩のところへ出入りし、書いたものを見て貰い、大変嘱望された。またこの一年ばかりは相川良之介のところへしげしげ訪ねていた。そういう話だった。絢子は、
「あのかたは、家庭でも、ほんとに孤独でいらしたわ、わたしにはよくわかっていましたの」
 そういって、わかる訳があったのだ、という眼つきで伸子を見た。伸子は、ばつのわるい表情をした。黙っていると、
「あの新聞に出ました『ある旧友への手紙』もちろんおよみになりましたわねえ」
といった。
「ええ」
 絢子は、犬歯のめにたつ口もとを引しめてうつむいていたが、その頭をもたげるなり、
「あすこに、女人とありましたでしょう。あれは、実は、私のことなんですの」
「…………」
 おこった視線で、絢子はその言葉を信じかねて黙っている伸子を見つめた。
「あなたも、私のいうことをお疑いになるんですのね」
 伸子は、
「ごめんなさい」
といった。
「でも――わたしは、あなたに二年も三年も会わなかったでしょう。そして、相川さんという人だってなにも直接の交友はなかったんですもの――信じる根拠も、信じない根拠も、わたしとしてはないのよ」
 やせて、皮膚のあれている顎をすくうようにして、絢子はうなずいた。
「それはそうですわね」
 絢子はなおひとりうなずいた。
「佐々さんは、やっぱり佐々さんらしくていらっしゃるわ……あがってよかった!」
 すぐつづけて、
「でも、それは事実なんです」
と、もとの主題に戻った。伸子は困惑し、同時にいとわしかった。
「事実だとして、わたしが伺って、どうかなることなの?」
「ええ、なりますとも。あなたが私のいうことは事実だって証明して下されば、それで私は満足なんです」
 相川良之介というひとは、何といろいろの角度から、いろいろの女に興味をもたれていたのだろう。多計代が示した好奇心も思いあわされた。伸子は、相川良之介が絢子にたいしていまいうような関心をもったということは、普通では信じられなかった。すべての点から。――たとえば、相川良之介がもっている清潔さへの好みにたいして、絢子の皮膚には汗のよごれが見えているというような点からだけでさえも。――
 伸子は、本気になって、
「ね、絢子さん」
とよびかけた。
「ああいう有名な、ある魅力をもつ人が、内容のわからないああいうことをかくと、大変誤解がおこるのよ。外国の文学史をみたって、そうだわ。愛人の詮議がよくおこるでしょう。――失礼だけれど、第三者からいえば、あなたのように、自分をその立場に当てはめて考えている女のひとが、ほかに幾人もあるかもしれないのよ」
「それゃ、事情を知らない方は、そうもお思いになりますでしょう、でも――私の場合はちがうんです」
「日本の女のひとは、外国の男が何でもない習慣ですることを、特別の関心と思いちがいして、かわいそうなことになるでしょう。――相川良之介というひとは、最も辛辣なことをいっても女のひとは愛の告白かと思いちがえるかもしれないぐらいのところがあったのよ」
「ええ、それもわかっています。でも私の場合はちがいます」
 そして絢子は、その言葉で伸子の顔をぶちでもするように、
「相川良之介さんは、私に接吻したんです」
といった。
「あのおうちの二階からおりようとしていたとき、階子段のところで……」
 伸子は、ぞっとした。そして、黙った。ペンをもつ手がふるえ、涎がたれるようになったと自分について書いている相川良之介を思った。二階へ急にかけ上って来た夫人が、となりの部屋の畳につっぷして、お父さんが死んでおしまいになったのじゃないかと思って、と弾む息をころしていた情景を思いおこした。その家の二階を下りるとき――……
「そういうことがあっても、あの女人というのは、私でないとおっしゃいますの?」
 二人が腰かけている小部屋の出窓の前の樫の梢でミーンミンミン、ミーンミンミンと単調にやかましく蝉が鳴きたて、生垣ごしの隣家の草むらに大輪の向日葵《ひまわり》が黄色く咲いている。草木の上には夏の日光が燃えきらめいている。そのやきつく風景を目に見ながら伸子は、寒いような心持だった。もし万一、絢子のいうようなことがあったとすれば、それは、酸鼻だと思った。相川良之介は、刃のこぼれた細身の劒を杖にして、その日その日をよろばい生きている自分の哀れさを、恋愛に飢え、金銭にかつえ、名声にかわいて汗くさくなっている絢子の上にも感じたのかもしれなかった。人生を彷徨《ほうこう》する餓鬼が、また一人そこに女の姿をしていることを病的な神経に感じとったのかもしれなかった。鼻の頭にされようと、唇の上にされようと、そのこころに立ってされた接吻でなくてほかのなんであったろう。それは幽鬼の接吻でなくてなんであろう。ともに頽《く
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