代のそういう云いかたをきいていると、伸子は、ますます母のこころが、越智とのいきさつ以来、このごろになってからまた一つの転機をへたのを感じた。多計代は素朴に撞着した熱情のまま、その熱情の限りで、ひよわい越智をおして行った。その結果は、丁度ひとが、自分のからだの全重量をかけて廻転扉をつよくおしすぎて、外へ出るよりもはやすぎるスピードでドアがまわってしまい、また逆にもとのところへ戻ったような工合だった。多計代は自分の心の力にまけて、自分の心のこまかい組立てをしんみりと吟味するゆとりもなく、男のひよわさの裏ばかりをひとまわりしてしまった。そして、女の自己肯定にこりかたまったように見える。
 伸子は一種の恐慌の感じでこの新しい事実をうけとった。多計代のうちに燃えゆれていた最後のみずみずしさ、柔軟さは徒労のうちに燃えつきた。そこには灰色にかたまったおき[#「おき」に傍点]がのこされた。もう二度とそれに火はつかないだろう。そして多計代が人生のいろいろな面、とくに男女のいきさつについてもっている偏見は、矛盾したまま冷えかたまって、多計代の生活にあるあらゆる自己撞着はこれからさきはひとしお威厳の加わったものとなって、佐々の家庭に君臨するであろう。伸子はそこに恐慌を感じるのであった。

        二十一

 二三日の予定で京都へ行った素子は、五六日ノビル、という電報をよこした。九月号の文芸雑誌は、急に相川良之介についての特集を行うことになって、伸子も感想を求められた。新聞にいちはやく、「改造八月号相川良之介氏の絶筆『西方の人』」という大きい広告が出ていた。「沙羅の花」「支那游記」などが同じ社から広告されていた。
 相川良之介について感想を語るとすれば、伸子は、自分の心にあるとおり、彼への疑問、肯定のつよさをおしのけるほどつよくもちあがって来る非肯定の心持から書くしかなかった。けれども、伸子には、自分が相川良之介の全貌を底の底からつかんでいるのではないという漠然とした自覚があった。「ある旧友への手紙」の中にこういうところがあった。「ただ僕にたいする社会的条件――僕の上に影をなげた封建時代のことだけは故意にそのなかに書かなかった。なぜまた故意にかかなかったかと云えば、吾々人間は今日でも多少封建時代の中にいるからである。のみならず、社会的条件などはその社会的条件のなかにいる僕自身に判然と判るかどうかも疑わないわけにはゆかないだろう。」こういうところは、伸子に字づらでしかわからなかった。伸子は、封建時代という意味をぼんやり「昔」としか理解していなかった。従って、相川良之介のいっている意味はよくのみこめず、その十分のみこめない文章の中で伸子によくわかるひとつのことは、自分によくわからないことについては書かないものだ、と語っている相川良之介の態度であった。この暗示に従えば、伸子として相川良之介についての感想などを書くのは礼儀でもないし、自分に忠実でもない、ということになった。しかし、伸子とすれば、自分にまでそういう暗示をなげる相川良之介の聰明そのものに非肯定を感じるのであった。
 伸子が机の前で考えにしずんでいるところへ、とよが、
「お客さまですが……」
と来て立った。
「どなた?」
「遠藤絢子さんという方です……老松町のころにもよく上ったとおっしゃっていますけれど……」
 遠藤さん――伸子は思い出した。老松町の家に住んでいた頃、近所の筑前琵琶師の二階がりをして、賃仕事などをしながら、文学をやりたいといっていた絢子という二十四五のひとがあった。
「ぜひお話ししたいことがあるっておっしゃいます」
 伸子は、玄関へ出てみた。二三年会わなかったうちに、生活のやつれが濃くなり肩も骨だって見えはしているが、やはりそのひとであった。
「ああよかった、わたし、きょうはどうしてもきいて頂かなくちゃならないことがあるんですのよ」
 犬歯の目だつ口もとで、伸子の上に目をすえていった。
「ともかくお上りなさいな」
 玄関に立っている様子も、そこから座敷に入って来る絢子のものごしも、どことなく伸子を警戒させた。伸子は、客を北側の落ちつく小部屋の籐椅子へ案内した。遠藤絢子は、暑いさなかを歩いて来たのに、汗をふくよりのどの乾きの方がきついという様子に見えた。冷たい水をたてつづけにのんだ。そこに出ている団扇をとりあげようともしないでコップで二杯の水をのみ終ると、
「ああ、お会い出来てよかった!」
 思いつめて遠方から来た気がゆるんだというように、椅子の背へもたれこんだ。酷暑だのに、白地銘仙の着物に友禅の昼夜帯をしめ、そのどっちにもたたみめがなかった。伸子は、
「なにか急に用があったの?」
ときいた。
「ええ是非きいて頂きたいと思う重大な問題があるもんですから……」
 絢子は、伸子が
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