ず》れゆくものとしての挨拶でなくてなんであろう。
 しかし、それは、絢子のいう意味の接吻とは全くちがう。本質がちがう。絢子にそれは理解されないだろう。
 沈痛に沈黙している伸子を、じりじりした眼で見まもっていた絢子は、どうしても信じるらしくない伸子を屈伏させようとするように、そのことで、自分が男心を惹きつける女性であることを力説するようにいった。
「佐々さん、まだ信じて下さらないんですのね。でも、男のかたのこころというものは、微妙なものですわ」
 そういう事情に通じない伸子を憫笑するようなほほえみを浮べた。
「久地浩さんも、私に接吻なさいました。でも、あのかたなんかはね……」
 世評にもいわれているとおりなのだから、という声の表情だった。
 絢子のいうことが事実であるにしろ、ないにしろ、そういう話しぶりをする絢子のこころは普通でなくなっている。
 伸子は、
「ひととひととのいきさつには、きっと、はたではわからないようなこともあるものなんでしょう」
 自制して、おだやかにいった。
「私にはわからない事実というものもあるんだろうと思います。でもね、遠藤さん、あなたは相川良之介という人を愛していたの?」
「それは愛していましたわ。家庭で、どんなにあの方が孤独だったか知っていたのは、私一人ですもの」
「それなら、そういう話を、あっちこっちもって歩いて、わけもわからないひとに、それを信じろなんていう必要はないと思うわ」
 こんどは、絢子がだまった。
「わたし、あなたが、そういうことをいって歩くのを考えると苦しいわ」
 伸子は、しばらくだまっていて、やがて、
「やめた方がいいわ、おやめなさいよ、ね」
といった。
「少くともわたしは、もうききたくないわ。いい?」
 また、間をおいて、
「世間は冷酷ですからね、あなたの気がどうかしている、というのがおちよ」
 遂に伸子は、とことんのことをいった。絢子は、じっと伸子のいうことをきいていた。そしてそろそろとかえり仕度をはじめた。
「ほんとに、そうですわ」
 顎を掬い出すようにしてまたうなずいた。
「あなたのおっしゃるとおりですわ。いくら記者のひとに話したって、気違い扱いなんですもの」
「そんな人にまでも話したの?」
「ええ」
 どうしてそれがまちがっているのか、という風に平静に、伸子の世間のせまさをあわれむように、絢子は答えた。
 あらゆる草木や地面からしめりけというしめりけを蒸発させて暑くかわき上っていた空の模様が変って、八月に入ったある夜、雷鳴につれて豪雨があった。
 素子は、まだ京都から帰っていなかった。奥の座敷に広々とつった白い蚊帳のなかで、ひとり床に入っている伸子は、じっと目をあいて凄じいその雨の音をきいていた。茂った竹藪の竹の葉や手入れのされていない松の枝、自然な萩のしげみなどをうっておちる雨の音は柔かく幅ひろくとどろいて、そのとどろきは、しずかにねている伸子の背なかに、つたわって来るようだった。雨戸の上についた欄間のガラスから時々稲妻の青白いひらめきが白い蚊帳の上に光った。一瞬の燐光に射出された天地がたちまちまたもとの暗黒にもどるとき、豪雨はしばらくの間一層きつくなったように感じられる。雨量の大きさには、忍びこみはじめた秋が思われた。伸子は自分のからだばかり不思議にぬれずに、季節の橋の上に横たわっているような心持がした。庭の夏草の根を洗って流れる水は、床の下に淙々《そうそう》と流れている。
 夜なかのこの豪雨を、やっぱり蚊帳の中によこたわりながらおそらく目をあいて聴いているひとがある。伸子は、そのひとのおとなしく七三にわけて結った髪の形を思った。そのひとは、つつましく化粧して白の喪服をきていた。亡くなった相川良之介が灰となって葬られているのはいいことだった。さもなければ、あの夫人は、この雨の音を、自分の悲しみの上に聴きしめていることは出来なかったろう。いとしいもののからだに流れる水を思えば、いるにいられない思いだったろう。
 その豪雨は、宵の口からふり出した。昼間はポプラの梢の上に白雲の浮き出た空がギラついていた。その空が見上げられる縁側に椅子を出して、伸子がかけている。小卓をはさんだ向い側に、大柄の瀧じま明石に絽の帯をしめた大島のり子がいた。二人は初対面であった。のり子は、その頃女子学生のために開放された大学で哲学の勉強をしていた。そして、ピアノに堪能であるらしかった。
「下宿ぐらしといったって、ピアノまでもって行っていらっしゃるなら、いいわ。――よすぎるくらいだわ」
 伸子は、半分ふざけて、それがまさか、と否定されることを予想しながら、
「ピアノはなんなの? ベッシュタイン?」
ときいた。のり子は、
「あっちのはひどいのですけれど……」
 自然な調子で、
「うちのはそうでございま
前へ 次へ
全101ページ中75ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング