子はおどろきのやまない気分だった。素子の性格のなかには、伸子とまるでちがったあらわれかたをする実行性があった。それがこれまでの二人の生活の急所でバネを押す力となって、移って来ている。そもそも二人が、一つの家に暮すようなきっかけとなったのも、どちらかといえば素子のそういう実行性の刺戟であったし、こんどのことにしろ、日頃はこまごまと煩瑣な素子に、予想されないような決断が働いている。
「――あなたは、なかなかえらいところがあるひとなのね」
伸子は、わきで白い団扇をつかっている素子にいった。
「どうしてさ」
「だって……生活の舞台を大きくまわすことを知っているんだもの」
こういうときには、かえって受動的な自分を伸子は感じた。そして、きいてみたかった。ほんとに素子は、向上心だけで、外国へ行こうと決心しているのかと。素子だけが外国へ行く、ということが伸子には、切迫した実感としてうけとりきれなかった。ひとり日本にのこる自分の生活の変化ということの実体もよくわからなかった。伸子は冷静なような、また、非常に動揺しているような気持で、夜の庭の夏草が室内から溢れる皎々《こうこう》とした電燈に照し出されて、不自然にくっきりと粉っぽいように見えているのを眺めた。
十九
東京の夏は、いつも七月二十日前後からひとしお暑気を加えて来る。その夏は近年にない酷暑ということで、新聞の写真版もあらそって涼味をもとめていた。
外国行の話をしてから、素子はその暑気の中を精力的に動いた。そして、二三日うちに京都へ出発するところまで用事を運んだ。
「やれ、やれ、これであした日本橋へ行けばもうすっかりすんだ!」
日中は乾くまでが暑くるしいと、夜あらったどっさりの髪を肩にひろげて、素子はうまそうに煙草をすった。日傘をささない素子の顔は日にやけて、湯上りの鼻のみねが、うす光りした。
あくる朝、伸子はいつものとおり、素子よりひとあしおくれて起床した。そして、蚊帳をたたみ、床をあげてから、茶の間のそとの縁側を通って風呂場へゆこうとした。すると、
「ぶこちゃん」
妙にしんとした声で、素子がちゃぶ台の前からよんだ。
「いま、すぐ」
そのまま髪を結いに行こうとする伸子に向って、素子はなお息をひそめたような声で、
「ちょいと来てごらん」
手にもっている新聞で招くようにした。
「――なにかあるの?」
櫛をつかいながら及び腰に、素子がひろげたまま、見せるその朝の新聞に目をおとし、伸子は、表情を変えて、そこへ膝をついた。
「やっぱりこういうことになっちまった」
素子が呟いた。伸子は沈黙して、上下の唇のまわりに白い輪のでたような顔つきになって、紙面に大きく複写されている作家相川良之介の写真を見つめた。痩せて、髪を特徴のある形でよく発達した前額の上にたらし、一種の精気と妖気とをとりまぜて、写真の上にも生々しくうつし出されている。当代においても最も芸術的であると云われていたこの作家が自宅で昨夜劇薬自殺を遂げた。その報道である。
肩に髪を散らしたまま、伸子は紙面全体に目をはしらせた。故人の親友の一人であった久留雅雄が、記者団と会見をしている写真を見、遺書として公表されている「ある旧友への手紙」という長い文章を読んだ。伸子は、全身にうけた衝撃を内容づけて、それで自分を落ちつかせるに足りるなにかをさがすように、新聞をよんだ。けれども、そこにかかれてあるすべての詳細な記事や久留雅雄の談話はもとより、「ある旧友への手紙」そのものでさえも、伸子のうけた衝撃の裏づけとなるだけの質量をかいていた。
伸子は、涙をおさえた悲しい顔をかしげて、しずかに櫛をうごかし自分の髪を梳いた。ほんとに、なんといっていいかわからない気がした。思いがけない、とか、本当にされない、とか云えるならばそれはいくらかうけた衝撃をまとまりやすい感動の言葉で表現できただろう。相川良之介の場合には、この作家の精神と肉体との危期が書くものにもにじみ出しはじめていることは、彼の芸術を理解するほとんどすべてのものが最近になって直感していた。鋭い稜角を常に示しつづける彼の知性の頂点と人間的な危期とは、最近この作家の作品とその風格の上に云うに云えない鬼気となって漂った。そして、それこそはこの作家の純芸術家としての光彩であるように目をみはられ、讃えられた。そのぎりぎりのところまでいって、とうとうこの作家は生きられなかった。生きられなかったのは、常識にたって、彼の死に驚愕し悲しみ、記者対談をやっている旧友の誰彼でもなければ、こうやって新聞をみて声をのんでいる伸子のようなものでもなく、人々から賞讚され、どっさりの追随者と模倣者とを身近にもっていた、作家そのひとである。
伸子は、刃のごく鈍い大きい桑切の庖丁のようなもので、か
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