子の方へ向きかわるようにし、
「ぶこちゃん!」
 改まってよんだ。
「なあに」
「――実はこの間うちから考えていたんだが、ここでひとつ、思いきってロシアへ行って来ようと思うんだがどう思う?」
「――……」
 とっさに伸子はへんじが出なかった。ロシアへ行こうと思う――。素子がしきりに拘泥していたロシアへの国賓のこと。素子はロシア語専門であること。今のところ行って帰って来た人は少いし、行こうとしている人もごく少い。民間の婦人としては一人もいなかった。素子が行きたいと思う動機はひととおりわかりはするのであったが……。
「――急なのねえ」
 そのことがら全体がよく会得出来ない、ぼんやりした表情で伸子はつぶやいた。
「それゃあなたは専門だから、行くのがいいのはわかるけれど……」
 前年の初秋、コンラードという東洋語学者が美しい細君同伴で日本へ来たことがあった。その歓迎会に伸子も素子と一緒に出席した。源氏物語を、ロシア語に抄訳しているというその教授の話の様子では、交換教授の可能性もあるような工合であったが、素子はそのときは格別の興味も示さなかった。
 ――でも、何故、素子はこの話にかぎって結論からいい出したのだろう。いつもは、伸子が煩しいと感じるぐらい、思いついた計画の第一歩から話す素子だのに。――急にわいて来る様々な疑問を、とりあえず一番簡単な問いにまとめたように、伸子はきいた。
「――お金、あるの?」
 素子は、そうきく伸子の腑におちかねながら緊張している顔を見やり、
「なんとかなるだろう」
 その点も、十分考えてある、という風に答えた。
「帰ってみた上でなくちゃたしかなことはわからないけれど、だいたいなんとかなるだろう――私の分を、この際いちどきに貰っちゃうのさ」
 関西にいる父親から、素子の分として予定されている財産を、まとめて貰って、それでロシアへ行って来ようというのであった。伸子は、財産のことについてそういう計画的な方法をとっているのが素子親子であることに、珍しい感じを動かされながら、当惑したように、
「わたしは駄目だわ、とても動坂なんかから、お金出してもらえない」
といった。
 七八年前、伸子は父につれられてニューヨークへゆき、そこで一年あまり暮した。そして、佃と結婚して、帰って来た。その間の費用は、佐々の親から出してもらった。そうして費用を出してもらったということで、伸子はあとまでどんなにせつない思いをしたことだったろう。佃も、うけないでいい侮辱をこうむった。自分がしたいとおりに生活するのなら経済上のことも自分でやるがいい。そういって、多計代は、佃と伸子とを動坂の家から出した。それ以来、伸子は現在のようにして暮して来た。
「話せば、出してくれるかもしれないけれど、わたしはいやだわ」
「それゃ、そうだね」
 素子は肯定した。が、じゃあ、ぶこちゃんの方はどうしよう、といわない。伸子は、ロシアへ行くというようなことについて、ちっとも考えを組立てていなかった。だから、いま急に素子が行くといっても、実感はそこになくて、どうせ行くならフランスも見たい、と漠然とした計画を感じるだけであった。けれども、二人のこの数年来の生活で、素子が、この話を、自分が行く計画としてだけ話しだしたことは、伸子を別の角度から複雑な心もちにするのであった。
「行けばどの位行くの?」
「さあ……」
 素子は、しばらく躊躇していたが、
「どうしたって二年だろう?――その位いなくちゃものになるまい?」
 そういいながら、素子はちょっと苦しそうな眼をし、うすく顔をあからめた。伸子は諒解した。素子は、こんどは、本当にひとりでも行く決心になっているのだ、と。そして、素子がひとりで外国へ行くようなことが実際におこれば、伸子とこうして暮して来た生活の形は、根本からちがったものになってゆくしかない。素子にはそれもわかっているのだ。伸子は、一層複雑なこころもちになった。伸子が、二人の生活ぶりに対して日頃心にわだかまらせている様々の疑いを、素子は察していて、こういう形で自分の方から全生活を変化させようと考えているのだろうか。伸子は、いよいよわたしはどうするの? といいにくい心持になった。それは素子がきめることではなくて、伸子自身がきめていいことだと、思われているのかもしれなかった。
「とにかく、わたしにかまわず仕度した方がいいわ」
 伸子は、おとなしく、すこししょげていった。
「わたしの方には、お金のあてもないんだもの……」
「じゃ、この原稿を渡しちまったら、ともかく京都へ行って来る」
 いまにも椅子から立ち上りそうに素子はいった。
「万事はそれからのことさ」
 ――しかし、まるで唐突に生活が大展開した。……その夜、金魚の絵のついた団扇で蚊を追いながら縁側の柱によりかかっていて、伸
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