りの新聞で、裏からと表からと照し出されて、はじめてほんとの現実になるという発見は、伸子にぴったりとしてわかる実感だった。小説はそうなのだから。なぜ? そして、どうして? この二つなしで小説というものは出発しないから。
 四頁しかないその新聞の紙面には、伸子が自分の日々にちっとも感じたことのない権力の圧迫というものを、日夜直接に痛烈にこうむって、それと抗争している人々の息づかいがみなぎっていた。いつか玄関に来た三人の、ぼうぼう頭で膏《あぶら》と垢でひかる顔をした青年たちが思い出された。つい先日、灯をつけない動坂の家の客間で保と話した話の内容や、その背景となっている学生たちのこころもちも思い浮んだ。これらはみんな伸子の生活のなかにおこっている筈のことであった。それだのに、伸子のきょうは全く平穏で、このとおり籐椅子にかけ、庭には盛夏に向って繁茂した夏草の午後のいきれがこめている。晩には、すだれの下った茶の間で、おとといそうであったように、今夜も冷たい京都風な煮うめん[#「煮うめん」に傍点]をたべるだろう。――
 その平穏は、しかし伸子自身にとっても何となし澄明でなかった。新聞に、二高や松山高校の盟休について、水野文相が断然処分する、と断言したために、それらの高校の校長がつよ腰になっているばかりでなく、学内の暴力団があばれているということが云われている。これは、ほかのどの新聞にも出た。こういうことのうちには伸子に自分の平穏を懐疑させる事実があった。
 文相である政友会の政治家の細君は、萬亀子といって、多計代とは、明治の初めに建てられた貴族的な女学校の同級生であった。どちらかというと親友の部類であった。萬亀子夫人が熱心な天理教信者であるため、ときどき互の意見が合わなかったが、それがすぎると、芝居の切符のことだの、同窓会のことだのと、電話でながくしゃべり合った。伸子たちは小さかったころ、その夫妻をおじさま、おばさまとよばせられた。
 保は、この間、佐々は、ばかだ、生れつきの調停派だ、といわれたと伸子に話した。それは、保の通学している七年制の坊っちゃん風の高校にさえも、調停派でない学生たちの気分があるということではないだろうか。もし、保がちがった生れつきで、生れつきの調停派でなかったなら、多計代がかつておじさまとよばした、その大臣に、やはり保も処分されただろう、断然と。彼はとりも直さず、その文相であり、保はその学生なのだから。
 この春、前崎にある佐々のうちへ、大磯の別荘から、萬亀子夫人が遊びに来たとき、多計代はいあわせた泰造はもとより和一郎まで加勢させて、箱根へドライヴしたり、力をつくしてもてなした。僕、へこたれちゃった、袋もちさせられて。一分刈の頭でカラーなしの制服姿の和一郎は、その日じゅうおばさまの手提袋をもってあげる役にあてられたのであった。一方的な、多計代のそういう熱中や奉仕ぶりを思うと、伸子には、それがさもしくけちけちしたことに思えた。あきるほどちやほやされつけている大臣夫人を、多計代のような古い幼な友達までが、世間並の方法でさわぐのはばかばかしかった。
 痩型で、折襟のカラーをつけて、こがたい官僚風な大臣であるその政治家の顔を思い出すと、伸子は、おばさまである夫人の敏捷で悧溌な凹み眼と、うすく水白粉のはかれている顔や沈んだ色の紅をさした唇で、軽く、やや口早にげびない蓮葉さでものを云うときの表情を思いおこした。夫婦は、その夫婦らしい会話の間で、どんな風に、新聞に出た学生処分のことなどについて話しあうだろう。伸子は突然、あすこに息子はいなかったかしら、と思った。そして、憎悪を感じた。「断然処分する!」あすこに男の子がいるとしてもきっとまだ小さいんだろう。末っ子かもしれない。伸子は、新聞をたたみながらそう思った。

 素子の翻訳した書簡集は、やがてある文芸書を専門にしている出版社から出ることにきまった。
「よかったわ――おめでとう」
 素子は、うれしそうに上気しながら、つみのないまけおしみで、
「出すの、あたりまえさ」
といった。
「本当にいいものなんだもの。――もし出さなけりゃ、むこうがばかなのさ」
「それゃそうだけれど……」
 伸子とすれば、間もなく、自分がこの二三年かかって書いた長い小説がまとまりかかっている。そのとき、素子の仕事も、はじめての業績として出版されることになったのを、うれしく思うのであった。
「――ひとつ献辞をかかなくちゃ、わるいかな」
「結構よ」
「外国の作家はよくやってるじゃないか」
「だって……」
 伸子は、首をすくめた。
「わたしも、じゃ書くの? 献ぐって?」
 二人は笑った。素子は、赤いパイプを口の中でころがすようにして目を細め、ポプラの枝の間に白く光っているとなりの洗濯ものを見ていたが、ふと椅子ごと伸
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