らだを、刻まれるような痛苦を感じた。
「――くるしい」
そういって、伸子はもっと空気を求めるように白いやわらかいのどをのばして顔をあおむけた。
「だめだよ、ぶこちゃん! しっかりしなくちゃ」
「しっかりしている……でも――苦しい」
「…………」
「かわいそうに……」
心からそういって伸子は、眼にいっぱい涙を浮べた。
「ある旧友への手紙」は、びっくりするほど素朴に気取らない文章でかかれていた。日頃のこの作家につきものであり、それが伸子に親愛感を失わせていた文章のいいまわしの知的なポーズがなくて、「僕の場合はただボンヤリした不安である、何か僕の将来に対するただボンヤリした不安である」と、自殺を思いはじめた心理的な動機がかかれていた。「僕はこの二年ばかりは死ぬことばかりを考えつづけた」「気づかれないうちに自殺するために数ヵ月準備したのち、自信に到達した」「僕は冷やかにこの準備を終り、今はただ死と遊んでいる」「僕は昨夜ある売笑婦と一緒に彼女の賃銀! の話をしみじみし、『生きるために生きている』吾々人間のあわれを感じた」「自然はこういう自分にはいつもより美しい。僕は誰よりも見、愛し、且つ理解した。それだけ苦しみを感じたうちにも僕には満足である」伸子はくりかえして、それらの文章の断片をひろいあげた。自殺の準備について、「僕は冷やかにこの準備を終り」とかかれている。何と思いがけないおさなおさなした天真さだろう。これまで自殺したどっさりの青年たちが、この冷やかに[#「冷やかに」に傍点]という自分の状態を遺書のうちにかいて来たのではなかったろうか。理智的な技巧と措辞の新奇さを一つの特色として来た彼がそれを、陳腐ともしないで誠心こめて自分の最後の文章のうちに書いている相川良之介のてらいのなくなった心。そしてまた、「僕は誰よりも見、愛し、且つ理解した。それだけ苦しみを感じたうちにも僕には満足である」と、ほんとに誰にでもその感じのわかるいいかたで一生をしめくくる最後の思いを語っている。「ある旧友への手紙」は伸子に、桃や柿の種のしんにある真白な芽を思わせた。作品にあらわれる相川良之介、或は作家相川良之介の趣味は低くなかったけれども、そこにはいつも人為的なものが感じられた。殻がくだけた最後に、はじめて白い、いじらしい、淳朴な人間性のふた葉がむき出された。
ひやひやになった伸子の手のさきをとって、
「さ、ぶこ、御飯にしよう」
素子が、励ますように、こわい声を出した。
「だらしないじゃないか――そんなに動顛するなんて……」
単純に動顛ということをいうなら、伸子は六七年前に武島裕吉が軽井沢の別荘で女の人と縊死した事件を知ったときの方が動顛した。動顛して、いく度か感歎詞をもらしたし、その葬儀のとき、焼香をしながら涙をこぼし、格式だかい遺族の人々の注目の前に自分を恥かしく感じたりした。動顛というよりもっと複雑なもの、もっと自分の精神にきりこんで来て、何か解答を迫る強烈な衝撃が、この相川良之介の死にある。伸子がしびれたような唇になっているのもそのためであった。
味覚のなくなった舌で食事を終った。素子が、また新聞をとりあげた。そして、「さぞ、楢崎さん夫婦もびっくりしていることだろう」といった。楢崎佐保子のところで、伸子は偶然素子に会ったのだった。「青鞜」のころから作品をかいているこの婦人作家は、良人の専攻であるイギリス文学の系統に立っていて、無産派の文学という問題がおこったころ、謡曲の「邯鄲《かんたん》」から取材した小説をかいたりしていた。あんまり人につきあう習慣のない伸子は、佐保子にだけはおりおり会いに行った。
いつだったか、現代作家の話が出たとき、佐保子は、きわめつけの語調で、
「相川良之介だけは本ものですよ」
と云った。
「あのひとはまがいものではありませんよ。この間うちへ見えたとき、作品が古典としてのこるかのこらないかは、その作品のスタイルによるっていっていましたよ。それは本当だと思うわ」
そして、笑いながら、
「古典になると思ったら、伸子さんもきちんとしたスタイルをもつことですよ」
冗談のように云った。伸子は、いかにも相川良之介のいいそうなことだと思い、
「そうお」
と笑ったが、すぐ、ふっと、それは彼が本気でいったことだったのかしら、と疑われた。文学作品がスタイルだけで古典としてのこるなどということを、伸子としては信じかねた。相川良之介には、彼が彼の背負っている文学的後光そのものをさえ皮肉に感じている口調でいうために、非常に辛辣な諷刺だったり逆説だったりするのに、きくものは文学上の箴言《しんげん》のように考える場合があった。周囲にそういう習慣が出来ているばかりでなく、相川良之介自身、孤独な知的焦躁とでもいう風な意地わるさにとらわれることがあ
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