……」
「珍しくおちついているよ、ゆっくりいるがいいのさ」
「二人でいらっしゃるからいいのよ、きっと。お母様だって落着けるだろうし、お父様ったらひまがなさすぎるから駄目よ、東京ばっかりだと」
 事務所のあるビルディングの入口で泰造とわかれて伸子は動坂へまわった。
 門を入ってゆくとピアノの音がしていた。内玄関の方へまわって、女中部屋の窓の外を通る伸子を見つけて、
「あら! 伸子さまがいらした」
という声がした。ガサガサと急になにか包むこわばった紙の音がして、一人が部屋の戸をぱたんとしめた。伸子はそのまま上ってピアノの音がしている客間のドアをあけた。和一郎が一人で弾いているとばかり思ってあけたら、出まどの下の長椅子に、従妹の小枝がかけて、ピアノのよこに、和一郎の友人の松浦が制服姿で立って譜をめくっている。小卓の上に紅茶茶碗や空になった菓子鉢がとりちらされたままあった。
「あら、伸ちゃん!」
 小枝が来年女学校を卒業する、すらりとした姿で立ち上った。
「しばらく!」
「やあ、来たの!」
 和一郎も制服をきていた。松浦が、もちまえの几帳面な挨拶をした。
 これは、月曜日の午後として、伸子の想像していない客間の光景であった。あけ放された出窓から、飾られている大理石の彫刻のわきまで枝をさし入れそうにしげっている楓の若葉照りをうしろにして、小枝の血色と純白のブルーズとは生気にみちて美しい。小枝が生気にみちた少女であるだけ若い人々の間には自然の雰囲気がかもされていて、ふいと、その中に入ってしまった伸子は場ちがいな姉として自分を感じた。
「冬ちゃんどうしているかしら……」
 泰造の妹に当る母が亡くなってから、小枝の姉になる冬子が母がわりとなって家の主婦役をしていた。おなじ従妹でも伸子は年の近い冬子の方によけい親しくて、佃との紛糾に耐えがたくなった頃、冬子が療養生活をしていた鎌倉の家のそばに、二間ばかりの家を見つけて貰ってしばらく暮したりしたこともあった。小枝は行儀よく、
「あいかわらず」
と答え、思いがけず伸子に会ったのをきまりわるそうに、和一郎に視線を向けた。和一郎や松浦がいつ学校へ行くのか見当のつかないような通いかたをしているのは、学校が美術学校というところもあって、普通のことのようになっていた。
 和一郎は、ごく自然なとりなしで、やがてシューベルトの歌《リード》を弾き出した。松浦が口ずさみから段々本気になって、声量はとぼしいが正確で地味なバリトーンで歌いだした。和一郎は中学を終って間もなく、そのころ一ツ橋にあった上野の音楽学校の分教場でピアノの稽古を始めた。和一郎はいい耳をもっていた。けれども、分教場の教師が必要と考えるだけ規則的な練習をしなかった。多計代がその教師に会いに行ったとき、その点が批評された。いい耳をもっているのだが、もっと規律的に練習しなければものにならないといわれたのであった。帰って来て、それをみんなに話すとき、多計代はむしろ教師を非難した。規律正しさだけで才能はのびやしない、どうせ分教場の先生をしているぐらいのピアニストだから、いうことに見識がない。――そういう風に話した。和一郎のピアノは、いつの間にかだらだら中止になって、自己流の素人芸に落着いてしまった。
 佃との生活にもまれていた伸子は、間をとばしてところどころ、その話を多計代からきいた。そして多計代とは反対な考えかたをもった。多計代は、芸術的な才能とか天稟《てんぴん》とかいうものにたいしてひどく架空な考えをもっていた。自分が日本画の稽古をはじめたときも、しばらくすると師匠が平凡すぎるといって、中絶してしまった。現実には、やっと絹に牡丹の写生が一枚描けるようになったばかりのところで。――多計代は自分や自分の生んだ子どもは一人のこらず、なにか特別な力をひそめて生れついているように思っているようだった。それをのばす方法は誰よりも自分が直観している、と思いこんでいるようだった。けれども実際には伸子にしろそういう母の判断から生じるすべての細目に力いっぱい抵抗することで、やっと現実に自分らしい生きる道も辿りつづけているのであった。
 松浦はいくつものリードをうたった。それをしばらく聴いていてから伸子はのどがかわいて茶をいれに食堂へ行った。誰もいないその室の通路に面して北側の腰高窓がみんなあいていた。それは不用心だった。そればかりでなく、掃除しっぱなしでレース・カーテンが一方へ引きよせたままになっている。いかにも、男の子だけが留守をしている家のぞんざいさであった。内側が赤塗りの大きい鮨桶がその中に笹の葉だけをのこして、皿や茶碗と一緒にまだかたづけられず真中の大テーブルの上にひろがっていた。そのテーブルのはしに送り状を紐にまきつけた三越からの届け品の細長い箱が二つ、ひょいと抛《
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