ほう》りのせたように斜かいにのっている。
 伸子は立ったまま、この室内の光景に目をとられた。それは異様な感じだった。ただ主人たちが留守の家のがらんとした空気ばかりでない異様な感じがした。室の空虚さと、空虚にかかわらずそこに見えない力で運転している浪費の姿がまざまざと感じられて、伸子は異様な感じがした。
 この生活は誰のもので誰が動かしているのだろう。さっき、丸の内で一時間あまり一緒に過して来た父が主人なのだから、これが父の生活だというには、父とこの生活との間に距離がありすぎた。父は父ではっきり自分としての生活の輪をもっている。伸子は、くりかえし異様な感じにうたれた。この生活の雰囲気には、人と人とが互いに繋《つなが》って何かのために生きて動いているというより、人々が何かによって生かされ、動かされていて、それについて無意識でいるような奇妙な無人格性がある。その無人格性の感じは、瞬間のうちにも追ってゆくと底なしの深さに深まって感じられる空虚さであった。
 空虚感ははうずめられなければならないというように、ぼんやりした哀感が湧いて来るのを伸子は感じた。高校生の保が瞑想《メディテーション》と自分の部屋の入口に貼紙するこころもち、そのこころもちの動機は、何と微妙に、しかもどっさり、ここの家の生活の明暮れにあることだろう。伸子は、ベルを鳴らした。この間電話をかけたとき、はア、はアとばかりいっていた新しい女中が、ドアから首を出した。
「ここをかたづけてね、――それからお湯わいているかしら、お茶がほしいんだけれど」
「はア」
「保さんに、お鮨とってあるの?」
「――さあ」
「ここへ出したっきり?」
「はア」
「ともかくかたづけて――おときさんはいるんでしょう?」
「はア」
 ときは、台所専門で、もう二年ばかり佐々の家にいた。
「じゃ、そういっておいて頂戴、今晩は、こちらで御飯たべてかえりますからって……」
「はア」

 四時すぎて、保が帰って来た。
「ああ姉さんもいたの!」
 保は、和毛《にこげ》のかげの濃い上唇をうれしそうにゆるめて、こまかく詰った白い歯なみを見せながら笑った。そして、からだを半分廊下にのこしていたドアをひろくあけて、客間へ入って来た。
「この前来たとき、保さん珍しくおそかったのね、雑誌って、どうした?」
「そろそろ相談している――別にいそがないのさ」
「それがいいわ、出来たら見せて」
「ええ。是非みて貰う」
 保のために、おやつを探して来て、客間に戻った伸子は、何となしさっきまでとは違った空気がそこに出来ているのに心づいた。制服をカラーなしで着ている松浦と低い白カラーをつけている保とは、指人形の話をしていた。保は来年学校の記念祭のとき、人間の指人形で芝居を出そうと思っているらしかった。文丙に入学した第一年の記念祭のとき、どういう題だったのか、保は坊主になって、フランス語の動詞の変化をお経代りにして大好評だった。兄よりも松浦よりもよこたてに大きいからだのすこし窮屈になったズボンの膝を行儀よく椅子にかけて、保はそんな話をしている。
「ジュスイ ザーレ、テュエ ザーレってやったの?」
 つや子が宿題で動詞の変化を諳誦するとき、小さい女の子らしく甲高い声をはりあげる、その口真似をして伸子はふざけた。
「小枝ちゃんの方は? ジュスイ ザーレはやらないでいいの?」
「随意科なの」
 きちんと学校へ出た保が帰って来てからは、若い三人の話題もちがって来た。
 保は、ごくたまにしかピアノを弾かなかったし、歌は全然うたわなかった。
「外で、キャッチボールでもしたら?……もうまぶしくないわよ」
 そういう遊戯ならば保も仲間になった。伸子は小枝の方を見て、
「お気に入った樹があったら、のぼってもいいのよ」
と笑った。小枝は樹のぼりがすきで、うまいという評判なのだった。小枝は、時計をみたり、和一郎の方をそれとなく見たりしていたが、
「わたし、そろそろおいとまするわ」
と、立ちあがった。小声で和一郎に何かいっていて、和一郎も、一緒に出かける様子だった。
「僕も、そこまでゆきますから……」
 松浦が追っかけるようにして、いそいで靴をはいている背中越しに、伸子は、
「和一郎さん、おそくならないうちに帰っていらっしゃいよ」
といった。
「わたし、夕飯すぎまでしかいないから」
「ああ」
「お留守のうちだけは、ね」
「姉さん、大丈夫だよ。心配しなくても」
 必ず帰るという意味なのか、うちの方は大丈夫だというのか、どっちを心配しないでいいのかわからないようにいって三人は出て行った。すらりと背の高い、黒い絹靴下を襞《ひだ》の多い短いスカートの下から見せている小枝を真中にはさんで、制服の和一郎と松浦とが石じきを行く。その後姿が、伸子の駒沢の家の玄関へ来た三人の青年たち
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