がいやであった。

        十五

「ぶこちゃん……動坂へ行く約束してあるんだろう」
「約束ってほどでもないけれど……」
 日曜日の朝、素子がいいだした。
「行っといでよ」
「ええ……でも、行ったって……」
「ピアノでも弾いて来た方がいいんだ」
 素子がそういうには理由もあった。土曜日のロシア語の稽古に浅原蕗子が来たとき、素子は最近のニュースという工合にして、前日来た三人のぼうぼう頭の青年たちの話をした。すると蕗子が、いつも変らないふっくりとして沈着な表情で、
「どちらがお会いになりましたの?」
と、二人を見くらべた。
「それゃ、もちろんぶこちゃんですよ。私なんぞは無名の士じゃありませんか」
「お金おやりになりました?」
「やるいわれなんかあるもんか! さすがのぶこちゃんも堂々とことわりましたよ」
 蕗子は、口元をほころばして伸子を見た。伸子はその蕗子の顔をじっと見かえしていたが、
「お金をやったとか、やらなかったとかいうだけで結着してやしないでしょう?」
 視線を蕗子の上にすえた。
「それゃそうさ」
「まして、ぶこの武勇伝なんかじゃありゃしない」
「…………」
 伸子には全くどういい現わしていいかわからないいやな後味があった。
 そういう伸子の状態を、素子は、神経にこたえた結果と解釈して、気まぎらしに動坂へでも行ってくればいいとすすめるのであった。
 月曜になってから、伸子は、八重洲町にある泰造の事務所へ電話して、昼すこし前に出かけて行った。イギリス風の料理ずきな連中が援助してその頃開業した小じんまりした店があった。そこでお昼をたべよう、ということであった。
 行ってみると、泰造はまだ机からはなれられないで、伸子は事務所に通された。いろいろな大理石の見本だの蝶番《ちょうつがい》だのの見本がつみ重ねてあるわきに、高いファイル棚があり、泰造はテーブルの上に青写真をひろげて調べていた。その日はモーニングを着ていて、眼鏡のはしのところを左手の指でつまむような手つきをして青写真をのぞきこんでいる。わきに白っぽいブルーズを着た若いひとが両ひじをテーブルについて、何か説明していた。伸子が入ってゆくと、ブルーズのひとは、姿勢を改めて丁寧に礼をした。だが伸子の方はその人の名も知らなかった。入口の広いところで、昼食に立ってゆく何人かの人にすれちがったときも、その人たちはほとんどみんな伸子にあいさつして出て行った。伸子の方でその人を見わけたのは、たった二人か三人きりだったのに。事務所が仲通からこちらに引越して拡大されてから、伸子はあんまり父の事務所へ出入りしなくなってしまった。名をしらず顔さえ見おぼえていない人々から、泰造のうちの者という意味で頭を下げられるのは伸子をいぐるしくさせた。
 青写真の用事がすむと、
「さ、出かけましょうか」
 顎のところに大きいほくろのある人に、来客のことをうちあわせると、泰造はさっさと事務所を出て、エレベーターのところへ行った。そういう泰造の動作は、ずんぐりなからだににあわず敏捷で、伸子はいそいでついてゆきながら、
「お母様、いかが?」
ときいた。母の様子がききたくて、伸子は出て来たのであった。
「ああ、この頃は、夜もねむれるようになったらしくて大助かりだよ」
「お父様、まだずっとあっち?」
「落着いて暮してみるといいね。駅を下りると、空気が全くちがう。第一、朝の心持がすてきですよ。この頃はヴェランダで、はだか日光浴さ」
「お客様なし?」
「絶対おことわりだよ。さもなけれゃ、行っている意味がないもの。あっちから、通っていると汽車の時間があるから、切り上げるのにもかえっていい工合ですよ。たいてい七時すぎにはつくからね」
 食事のとき伸子は、半分ふざけて、
「そういえば、お父様、前崎のモーターどうして?」
ときいた。
「もういいの? 騒動なさらない?」
「うん、大丈夫だ」
 泰造は、よっぽどこりたと見えて真面目に答えた。
「ポンプやの計算ちがいで、結局二馬力のにして、やっとよくなった。はじめっから俺はそれでなけれゃあぶないといっていたのに――」
 事務所へかえる前、泰造は丸ビルへよって髭剃りあとへつける化粧水を買った。
「前崎でいるようなものないかしら。――わたし、これから動坂へ行くから、もしあったら届けてよ」
「何にもいりませんよ」
 泰造は例の、踵の音の高く響く足どりで横浜植木の店のなかをひとまわりした。あてにして見に入ったものがないらしかった。
「ないの?」
「出ていないね、きょうは。前崎の玄関のところの花壇にバラを植えようと思っているんだが……」
 バラというと、伸子は父の誕生日にもって行ったきれいな黄色と白のバラの花を思い出した。つづいて越智が思い出された。
「お母様いつ頃おかえりになる予定なのかしら
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