に育った、という偶然の事実は、ある人々がいうように、人生がわからないことだと直訳されきれるものでない。そのことを伸子は確信していた。食うに困った覚えがないということが、ただ人間を低めるだけの意味しかないものだとも信じなかった。さもないなら、大昔から人間の善意がどうしてあんなに熱心に、貧困による不幸や暗さとたたかいつづけて来ただろう。ユートピアを考えたひとは、誰だって、まず第一に貧困というものがない社会を想像した。
 無産階級、プロレタリアという言葉は、文学の分野にも生れて来ていて、伸子はその字を賑やかに新聞や雑誌の上で見ていた。何年か前、吉野作造が帝大主催の講演会で、サン・シモンとフーリエの話をしたことがあった。その頃まだ袴をはいていた伸子は非常な興味をもって講演をききノートをとった。それから月日がとんで、無産階級、プロレタリアという声がきこえはじめた。伸子には、今の社会で貧しい人たち、労働者を無産階級、プロレタリアということはわかったが、たとえばいま帰って行った人たちのように、金もちでもない自分のようなもの、自分で働いて生活している自分を、無産階級と対立する存在のように見なされるということは納得出来なかった。労働者の娘でなく、食うに困らないからといって、伸子は自分が人間としてよく生きようとしている意志をその人々の前に憚《はばか》ったり、はじたりしなければならないとは思えないのであった。
 紫メリンスの前かけをしめて、考えこんでいた伸子は、上りがまちに腰かけたまま、うしろの襖が細目にあけられたのに気づかなかった。急にそこがひろくあいて、
「ぶこちゃん!」
 不安にされたような素子の声で、伸子はかえってぎょっとした。
「どうした?」
 伸子は首だけあおむけ、
「どうもしない」
といった。
「帰ったんだろう?」
「帰った」
「ぶこちゃん、なかなかいいたんかきったじゃないか」
 その言葉は伸子にたいへん意外な感じを与えた。
「――たんかなんかにきこえた?」
「そういうわけじゃないけどさ。――生意気じゃないか、ひとのうちへ来て脅かすような声なんか出しやがって――」
「あのひとたちにすれば、はじめっから、たのみに来たんじゃないんだろうから……」
 二人は縁側に出してある籐椅子のところへ戻った。
「あれでいいのさ。よすぎるぐらいだ。くせになってしようがありゃしない」
 素子と伸子との生活で、伸子は子供らしいことをこわがった。夜道だとか、妙なきのこ[#「きのこ」に傍点]、いも虫、けがや死人の話、怪談。そういうものをこわがった。だが、夜中に妙な物音がしたり、きょうのような人が来たりすると、素子は亢奮して上気した顔のままその場を動かず、別なとき臆病な伸子が出て見にゆくのだった。
 素子は、あの三人を追っぱらった、という風にいうが、じかに目の前に並んだ三つのきたない若い顔々をみ、ルバーシカの下に三つの胃袋を感じ、三人の若い男の体臭さえかいだ伸子にとって、あの人々は、おっぱらわれなかった。伸子に、のこして行ったものがある。のこされたものは、従来の伸子たちの生活になかった一つの刺戟であった。
「――とんだ飛び入りが入っちゃった。おはぎ、出来てるよ、どこで食べる?」
 素子は、伸子をいたわるようにいった。
「ここにしない?」
 運ばれた皿の上でおはぎをゆっくり箸でちぎりながら、伸子は、
「なんだか妙な心持がする」
といった。
「みんなこんな気持がするのかしら」
「――何が?――ああいう連中に来られるとかい?」
「うん」
「――税みたいなもんだと思ってるだろう」
「そうかしら……」
 関東に大震災があった年の初夏、軽井沢で愛人と共に縊死した武島裕吉という有名な文学者があった。人道主義の作家で、無産者の運動がおこってから北海道に持っていた農場を小作人にただで分譲したりした。
 伸子はその人の作品はほとんど全部よんでいた。豊富だが、感傷的なものの感じかたには肌があわなかった。特に死後に発表された女の友へ送った書簡は、その甘たるさで伸子をおどろかせた。ちょうど佃との生活が破綻しはじめているときにおこったその作家の死は、伸子をつよく衝撃した。その時分伸子はただ武島裕吉の性格や恋愛、貴族的なその環境との矛盾というところにだけ、死の原因を理解していた。伸子は、いまその武島裕吉が書いたもののどこかに、しかも一度ならず、金銭の要求に来られる者の立場から感想がもらされていたのを思い出した。文句を思い出すことは出来なかった。けれども、たしかにそれはあった。
 素子があやしんで注目するほど、伸子は念入りに皿のおはぎをいくつにもちぎりながら、それを食べるのを忘れていた。武島裕吉の生きかた、つまりはその死にかたにも賛成していない伸子は、いまの自分の心にその武島裕吉が連想されたこと
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