あ、みんな行った――僕と保が留守番だから、いらっしゃいよ」
「――つや子も?」
「ええ。お父様が神経痛で事務所を休むことになったもんだから、急に大さわぎしてドタバタ行っちゃった」
「そうなの」
それならよかった。多計代は一人でまめに汽車の往復は出来ない人だし。――
「いつもなにか文句をいうお母様が、案外簡単に出かけたんで、おとうさま、おどろいてたよ」
思いきって、良人や小さい娘と東京をはなれる気になった多計代の心持も伸子には推測された。
「なんで行ったの?」
「僕が東京駅まで送って行って、あとは汽車」
「――さぞ大変な荷もつだったんだろう」
伸子は笑い出した。大小のトランクや風呂敷包みのほか、多計代のゆくところへはいつも水筒だのバスケットだのが欠かされなかった。そういうとき、母の大きい手提袋をもたされるのは、つや子であった。頭の上に大きいリボンをつけて、おしゃれをさせられながら、しまりのないおかしな恰好をした大きい袋をもたせられるとき、つや子はきまりわるそうにいやそうに眼を伏せて唇をかんだ。その一行が、ぞろぞろ東京駅に入ってゆく姿が目に見えた。
「いつ頃まであっちの予定?」
「さあ、はっきりしないんでしょう。当分お父様だけはあっちから事務所へ通うらしいけれど……」
「つや子の学校は?」
「一緒に月曜に出て来るんでしょう」
からだのよわいつや子は、家から近いというばかりでカソリック系統の女学校附属の小学校に通わされていた。同じカソリックの尼学校でも、貴族出の尼さんの学院、中流の尼さん女学校、又いく分その下に当るらしいつや子の学校の尼さんたちは、女生徒にたいしても人間ぽい好ききらいを露骨に示すらしかった。つや子はおとなしくて可愛い娘というよりは、神経質でその癖おしきったところのある生れつきのために、同じ成績でもマ・メール(お母様)とよばれている尼校長から御褒美をもらったりすることの少い女の子の部類に属した。つや子は、その学校に通わされることをだんだんいやがるようになって来ているのであった。伸子は、日曜にでもゆくということにして電話をきった。
桜並木の道を戻って来ると、むこうから素子がぶらぶら来た。
「――出かけるの?」
「いやに手間がかかるから来てみたのさ……どうだって?」
多計代のからだ工合をきき合わせるというわけで、伸子は酒屋まで電話をかけに来ていたのであった。
「けさ、前崎へみんなで行っちまったんだって……」
「結構じゃありませんか、そのくらいなら」
そして、素子は皮肉に、
「たまには、われわれも、御招待にあずかりたいもんだね」
といった。
「…………」
「ぶこちゃんはたまさかいったことがあるんだろう?」
「二三遍は行ったかしら……」
伸子が前崎へ行ったのはまだ家が出来たばかりで、門も垣根もない時分のことであった。昔の東海道に沿った松並木の名残りが生えている崖にふみつけられた細道をのぼると草がぼうぼうしげった平地に出た。そこに、ぽつりと一軒、瀟洒《しょうしゃ》なスレート屋根の佐々の家が建っていた。両親と伸子と手つだいのものは、一列になって草ぼうぼうの間をかきわけて進み、地境のしるしにめぐらされている竹垣の木戸もない間から入った。泰造が、ポケットの鍵束の中から、親鍵を出して、入口の堅牢なドアをあけた。そのときは、水をくみあげるポンプの電力モーターの馬力が足りないで、逗留している三日間、伸子と手つだい女とが草っ原を通って下りて行って街道の漁師の家から井戸水をもらった。
箱根の連山が見晴らせるその家のヴェランダの椅子で、多計代は、そんな役に立たないモーターをすえつけさせたことをおこりつづけた。癇癪をおこしながら、泰造は自分でモーター室へ下りて行って、調べたりした。モーター室の上は、天井のコンクリートを利用して、快適な屋根のない亭になっていた。入口のドアの外に靴の泥おとしが鋳ものの鉄製で、面白いスコッチ・テリアの形をしていた。半地下の外壁に噴水のしかけがあったりした。あっちこっちに泰造のそういう趣味がちらばっている。それは伸子を興がらした。けれども、モーターのことで居る間じゅう母がおこりつづけていることは馬鹿らしく思えた。風景の晴れやかさや別荘のいかにも快適らしい外見と、多計代の不機嫌とを見くらべると、チェホフかゴーゴリの小説に諷刺的に描かれている細君のようで、ばつがわるかった。水をもらいにバケツを下げて街道の漁師の裏へ入って行くと、そこには半分裸のような男女の子供らがはだしでついて来た。どの児の髪の毛も潮やけで赤く、ばさついている。黙ってとりかこんで、水をくんでいる「東京の邸」の女を眺め、なお街道をよこぎって崖の下の、細道の入口までついて来た。そこから奥へは入って来なかった。ものをいいかけても黙っており、笑いかけ
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