う。多計代の感情のうちに、恋愛のこころから結婚をとおって、母となるおどろきとよろこびに目ざまされた母性のふっくりした展開はもたらされていない。それを、多計代として気づいたことがあるだろうか。それは、多計代が彼女なりに子供を愛していることとはまた別のことであった。息子たちに激しく求めている純潔も、思えば、多計代のうちにある、理想化された男性へのあこがれのてりかえしであると思える。
保の部屋の入口の鴨居にあるメディテーションという貼紙は思い出すたびに伸子の心を暗くし、同時に、保と対蹠《たいしょ》する存在として一家の中にある姉の自分を思わずにはいられなかった。多計代の女の心のかげをこうたどって来てみれば、母にとっても対比されるものとして存在する娘である自分を思わないではいられなかった。つよい生命力をもちながら、時代の境遇によって夫人、母という立場から動けない四十代の多計代のかたわらで、一人前の女となった若々しい伸子は、どういう風に生きて来たろう。少くとも伸子は、一人の人間としての女の熱中を傾けて、それをあからさまに主張し、佃とも恋愛し、結婚し、離婚して来た。
伸子は、思わずかけている籐椅子の上で力のこもった身じろぎをした。一時に多くのことが諒解された。多計代のうちには、決して母という名で消しつくされようとしていない若さが自覚されているにちがいなかった。でも、その若さは、年齢と境遇とのずれ[#「ずれ」に傍点]で、現実に新しい内容づけの不可能な若さの夕ばえである。何ぞというと、伸子をエゴイストと非難する多計代の感情の奥底が急に会得された。多計代が上気しておこった眼付で伸子に向ってエゴイストと罵るとき、それは伸子にだけいわれている言葉ではなかった。自由に、自分の希望と意志と責任とで行動しようとし、また、事実そうしてゆくすべての若い世代の同性にたいして、多計代はいうにいえない自身の不同意を、若い女のエゴイズムという言葉にまとめて、伸子にそれをうちかけた。
伸子は、四年ばかり前に赤坂の古びた佃の家の縁側で泣いていた自分を思い出した。伸子は、毎日毎日がただ瑣事の反覆で過ぎてゆく生活の無意味に苦しんで、佃といいあらそった。佃には伸子の身心をさいなんでいる生活の空虚感が全く通じなかった。顔を泣きはらしている伸子の肩を抱いて、佃はやさしくくりかえした。
「そんなに泣くことはないですよ、ね。もう十年たてば、そんな苦しみはなくなります。僕にはよくわかっている――」
慰めるように囁かれる佃のその言葉を、伸子はどんなに恐怖したろう。もう十年たてば――十年! 一年だってこのままたつのがこわいからこそ、こんなにせつながっているのに……。絶望はいっそう深まり、伸子は新しく声をあげて泣いた。
古びて木目のたった縁側で泣いていた自分のその声のなかから、伸子はいま、たくさんの女の泣く声がきこえて来るように感じた。
十四
電話口に出た女の声は遠くたよりなくて、伸子が、
「もしもし、佐々ですか?」
と力を入れてきくと、
「はア」
と答えた。
「わたし、よ。伸子ですが、いらっしゃる?」
とききかえすと、また、
「はア」
と返辞した。
「ね、お母様いらっしゃるの? いらっしゃるなら、ちょっと電話口まで……」
「はア」
というから、伸子はきき耳を立てて待った。佐々の家では、多計代たちだけ卓上電話を使っていて、そちらに連接をきりかえるとプツッとスイッチのはいる音がする。伸子はきき耳を立ててその音がするのを待った。が、受話器の中では変化なく電流が響き、どこかの通話の声がしているばかりである。念のため、
「もし、もし」
といってみたらば、同じ声が、
「はア」
といったので、伸子はびっくりした。
「もしもし、あなた、だれ?」
「…………」
「ききにくいなら、誰かほかの人に出ておもらいなさいよ」
引っこんだらしく、ややしばらくして、こんどは、
「あ、もしもし」
思いがけなく和一郎が出た。
「まあ、しばらく――」
「ああ、姉さん、どう?」
「お母様は?」
「前崎へ行っている」
小田原の手前に、佐々の家は小ぢんまりした別荘をもっていた。別荘らしい家はちっともないその海岸の漁村一帯は、大変体によくて長寿の者が多いということだった。泰造は、祖母に「西洋にあるとおりの家に住まわしてあげる」と、洋風のその家を建てはじめた。八十二歳になった祖母は、その家の出来上らないうちに亡くなったのであった。
「いつ、いらしたの?」
伸子が動坂へ行って、越智と結婚しようかという話をきいたのは一昨日のことであった。
「けさ……」
「けさ?――きょう何曜日?……木曜でしょう?」
多計代が、急に前崎の家へ行ってしまったことは、伸子を何か不安にした。
「だれか一緒に行ったの?」
「あ
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