女としての自分を買いかぶって、自分に対する場合だけはいつも例外で、その男にいたずら心や浮気のない深刻なことのように思うとすれば、それはうぬぼれでなくて何だろう。ある婦人の良人である男と妻である自分の間に、感情の逸脱があっても、それは自分が自分である限り高貴な悩みなのだと思っているとすれば、思いあがりでなくて何だろう。
 理づめに糺弾に傾いて行った伸子のこころもちは、やがて、一つの矛盾の裂けめを覗きこんだ。それは、男女の間の純潔ということが、多計代のこころの中では、肉体の交渉の有無にばかり重点を置かれている、ということであった。だから、あんなに純潔好きの多計代に、おどろくような矛盾として、越智との感情交渉がなりたった。その感情に肉体的な表現がもとめられて、はじめて、多計代には、純潔感がめざめ、女の警戒が覚醒している。伸子の、庭を眺めて眩しそうに細めているまぶたの上に悲しみとおどろきの色がさした。きのう多計代が結婚という言葉をいったとき、その言葉から射すひとすじの光もなかったわけがわかった。多計代の人生にとって、肉体的な意味での男女の性的交渉は、必ず結婚という手続を通ったものでなくては認められず、そのもの堅さは、逆に、若かった多計代が恋愛の道をとおらずに経験した結婚の門出が、若い娘にとってどんなに溢れる情感から溶け入ったおのずからのものでなかったかを語っているのではなかろうか。その意味で、多計代がやかましくいう純潔の裏がえされた面には、暗闇で息をのみ眼を大きく見開いているような女の経験があるのではなかろうか。
 いつだったか、父と母との結婚記念写真が出て来たことがあった。三十歳を越したばかりで髭を立ててフロック・コートを着て立っている白面のおとなしい泰造の横前に、房つきビロードの丸椅子にかけて島田に結った多計代がいる。写真には白っぽく写っている立派な衣裳の二枚重ねに、黒ちりめんの羽織を着て、膝にあげた片方の袂のなかに片手をかくしてうつされている。その花嫁の眉つき、レンズに向けられているまなざし、紅をさした口もとの締り工合、どこにも羞らいやうれしさがなかった。陰気で、けわしくさえ見えた。伸子は、しげしげと眺めながら、
「このお母様は、あとの写真ほど美人じゃないわ、なぜかしら」
といった。全く、それから小一年たったあと、浴衣で、夜会巻でとっている多計代の七分身の写真には、におやかさ、ゆたかさが映っているのであった。
「これねえ」
 しんみりとして多計代も、昔の俤《おもかげ》を眺めかえしていたが、
「私としちゃ、記念写真をとるどころの気持じゃなかったんだもの、かわいそうに」
といった。
「何にもしらずにお嫁に来てみれば、親類書のどこにものっていなかった四つばかりの男の児がチョロチョロしていてさ、その子を、俊一、俊一っておばあさまが可愛がっていらっしゃるんだもの。私は本当に、これゃ大変なところへ来た、と思った。誰の子だか分らないうちは、決して、奥さんになるまいと決心してね、つきそいに来たばあやを次の間にねかして……だって、それゃそうだろうじゃないか」
「それが、あの俊ちゃんだったの?」
 泰造の伯父の息子で、その頃はもう三菱につとめている青年があった。
「そうだったのさ、だからやっと私も安心したようなものの……」
 多計代は、
「お父様もお気の毒に」
と笑った。
「私が月を眺めて泣いてばかりいるもんだから、ほかに好きな人でもあったのかっておっしゃった……そうじゃなかったんだけれど。――でも、私はお父様に感謝しているよ」
 素直な声で多計代はいった。
「よく私のいうことをきいて、ひと月もふた月も、いうままにしておいてくだすったと思って。――多計代もかわいそうに、いきなりこんなごたついた家へ来させられてそういう心持になるのも無理はない、といっていらした」
 伸子は少女としての感情が育ってから、いつも自分の母というひとは、よそのうちのおかあさんといわれている母親たちと、どっかひどくちがった感情で娘である自分にたいしているように感じることが多かった。伸子は、母にたいするというよりも、年かさで命令権をもっている女に向って、一人の若い女が正面から向いあって立ち上った時の感情を経験した。
 いま、母の結婚生活がはじまったころの話を思い出すにつれて、伸子には、これまではっきりつかめていなかった母の女としての情熱の矛盾が、しみじみわかった。大柄な美しい多計代のからだにはもって生れた様々な情熱の可能が、可能のままかくされていて、子供が次々に生れて母になってゆくという現実と、心のどこかにはいつもほかの生活への空想とあこがれがうずいていることとは、くいちがったままで多計代の生活を貫いて来ている。
 十六ぐらいの娘であった伸子に、どうしてそんな女の心のあやがわかろ
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