て長い間、非常に集中してそのことについて母と話していたのに、その間に一ぺんも、良人たる父の立場というものが伸子の感情に訴えて来なかった。なぜだったのだろう。結婚という考えがあんまり突飛で、あり得ることと思えなかったから、現実の生活でそういう破局に面している夫婦としての父の立場が訴えて来なかったのだろうか。十年ばかり昔、父と母とが珍しく一緒に関西から九州へ旅行したことがあった。泰造の出張をかねてであったが、髪ひとつ結うにも手間のかかる多計代が同行したことは珍しかった。二十日ばかりの旅行を終って、父と母とは九州のおいしいポンカンや日向みかんの籠をもって帰京した。そこの小さい島にだけ南洋の植物がしげっている日向の青島の話を、父も母も興味をもって話したりしたが、日がたって、伸子ばかりのとき、多計代が、
「旅行もいいけれども、私は名古屋から、よっぽど一人で帰って来てしまおうかと思った」
といった。
「どうして?」
「あんまり腹がたったからさ」
「――だから、どうしてなのよ」
「お父様ったらひとが見ていないと思って宿屋の女中と、ふざけたりなさるんだもの……」
 十八になったかならない年ごろだった伸子は、きまりのわるい顔をした。
「ふざけるって……」
 名古屋で、ある人の招待をうけたとき、母の仕度がおくれて父が一人さきに宿の玄関を出た。そして靴をはきかけているところへ、母がうしろの階段から下りて来た。そして階段の中途から、多計代の来ていることに気づかなかった泰造が靴をはきながら、女中の肩に手をおいているのを見た。多計代は、そのまま部屋へ戻ってしまった。急に気分がわるくなったといって動かない多計代を、主人側に気の毒がった泰造がやっとなだめて出席させ、以後は、決してそういうことはしない、と誓約したというのである。
「とても私はそんな侮辱をうけてだまっちゃいられないよ。男ってどうしてああなんだろう。あんまり日本の女に見識がないから、男はこわいものなしでいい気になっているんだもの」
 多計代は、女性の威厳として、痛烈にそういった。そのとき伸子は、宿屋の女中とふざけて、と父についていう母の平気さを変に思った。酔っぱらいの大きらいな伸子は、そういう場合につかわれるふざける[#「ふざける」に傍点]という言葉を、酔っぱらいについたものとして感じ、それは父に似合わしくなく思えた。一方では宿屋の女中を、そんなに自分と対立する女として感じる母の見識というものに疑問も感じた。そういう気分で宿々に泊る母の旅心は窮屈であったろうし、同行する父にとってもかさだかであったろう。
 いろいろ思いあわせているうちに、伸子は一種の滑稽を感じて口元をゆるめた。佐々の家庭では、芸者とか妾とかいう言葉はタブーで、子供のいるところでは決して出なかった。何かの場合には芸者はシンガーといわれ、妾はコンキューといわれた。そういわれても、いつかわかることはわかって来ているのであった。
 男にもとめる純潔さに対して、多計代は妥協がなかった。泰造はじめ、和一郎も保も、母の純潔と考える標準で見守られ、その気分で導かれて来ている。伸子は、年とともにそういう母の趣味や見識を、男の子たちのためにむしろ気の毒に感じ、危険にも感じはじめていた。少年から青年にうつる弟たちの肉体と精神とにある種々様々な動揺について、このこまかいニュアンスについて、母が何を知っているだろう。伸子が保について、いつも気がかりになるのはその点でもあった。伸子から見る母は、そういう方面について全然無邪気であるか、さもなければ伸子にわからないほど粗野な何かを知っていて、極端にそれに反撥しているようであった。佐々の家庭の雰囲気で、純潔は絶対の価値として刻印されているのだが、それをつきつめると、純潔の実体はごくあいまいである。
 爽やかな新緑の濃やかな庭の面を眺めながら、伸子が開かないシャッタアのような黒さを心の前に感じているのも、そこのことであった。
 妻が、良人のいないとき、自分の別な結婚のことについて娘と話す。そういう話をしなくてはならないような感情生活を、結婚生活の中にない合わせてもってゆく。それは、多計代のいわゆる純潔なことなのだろうか。男性一般に対して、良人や息子に、あれほど純潔を要求する母が、自分にたいして、他の女の良人である男が興味をもち、進んで結婚という一つのけじめの必要を考えさせるほど切迫した関係をもつということは、多計代の純潔感に抵触しないことなのだろうか。
 きのう、とり乱した母の顔を目の前に見て、伸子は我ともなく母を防衛し、母の少女っぽい純潔さを強調して自分に感じとった。けれども、いま自分の住居の机の前で、いくらか落着き筋だって考えると、それらのことのうちにはどっさり矛盾がある。うぬぼれや思いあがりがある。多計代が、
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