ちつかなそうにしていたあげく、きっと何とか彼とか口実をみつけて友人たちのいるその部屋から出て行ったものだ。そういうことを、冗談まじりに、泰造の古い友人から伸子もきいていた。
 父と母とは、その後、しだいに変化し膨脹した経済条件につれて、いろいろな変りをその生活につけて来た。けれども、伸子が娘として父母のために、それを護りたく思う夫婦の醇朴さは失われきったといえないと思えるのであった。
「このことはね、お母様。お母様にとって、思っていらっしゃるよりも大変な危機なのかもしれないわ」
 伸子は、信頼のこもった、つっこんだいいかたをした。
「わたしには、賛成していいという根拠がわからないのよ、わかるでしょう? わたしは、越智という人を信用していないんだもの。――だから、どうぞお母様もよく考えてよ、ね。本当にお願いだわ」
 とられたままでいる多計代の手を、伸子ははげますようになでた。
「ね、お母様が、そう考えるようにおなりになったわけは、いくらかわかるわ。でもね……それゃお母様は、いざとなれば貧乏は平気だと思っていらっしゃるし、世間的な名誉なんか放り出せると思っていらっしゃるでしょう。それが、より価値のある生活だっていう自信さえあれば――そうでしょう」
「そう思わなくちゃ、こんなことは問題にならない」
「でもね、それは非常に複雑だと思うわ。だって、お母様は一ぺんだって、貧乏人の娘だったことはないんだし、妻として社会的な自尊心をきずつけられるような目にあったことはないんですもの。金もちでないというのと、貧乏人として扱われて来たというのとはちがうでしょう?」
 伸子は話をすすめてゆくうちに、多計代がどんなに自尊心の烈しい性質であるかという実際の例を次々に思い出した。
「お母様の自尊心は佐々泰造夫人という土台で、それでもっているのよ。その土台がなくなってそして、本当に女としてのむきだしな自尊心が傷つけられるようなことになったら、どうなるのかしら……」
 伸子はおそろしくなった。子供のときからみなれている母の大きい無邪気な肉体と、縁なし眼鏡をつめたくその顔の上に光らせている越智とを思い合わせると、結婚という言葉から伸子がそこに感じるのは、意味もわからないほどの不自然さ、凌辱めいた不自然感ばかりであった。
「いそいできめちゃ駄目だわ、そうでしょう?」
「私もそれはそう思っている」
「お母様の気もちだけで行動しないで、ね。わたしは、佃と結婚するとき、本当に佃だってわたしと同じように人生にたいしていろいろの希望をもっているんだと思いこんだんだわ。ただそれがわたしに向っていえないだけだと思ったのよ。それがかわいそうと思ったのよ。でも、それは間違っていたんですもの。……」
 多計代は、深い吐息をついた。そして思い沈んだ表情ながら落ちついて、
「ほんとに私もよく考えよう……ありがとうよ」
 そういいながら、とられていた伸子の手の中から自分の手をしずかにひっこめた。

        十三

 何という奇妙なこころもちだろう。
 朝から素子は牛込の本屋へ出かけて、森閑としている駒沢の家の庭には、きらめく初夏の日光が溢れた。柘榴のこまかい葉の繁みは真新しい油絵具の濃い緑のように濃く、生垣越しのポプラの若木の梢は軽いやわらかな灰緑色に、三角形の葉をそよがせている。目のとどくいたるところに伸子の愛好する爽やかな新緑の濃淡がかがやいていた。それは、花の季節よりゆたかに自然の美しさを感じさせる。伸子は机の前から、そういう庭の景色を眺めていた。そこには日一日と緑の諧調を変化させているまばゆい初夏の庭がある。伸子の眼はそのまばゆい緑をじっと眺め、まばゆさのために瞳孔を細くちぢめているほどだ。だのに、伸子が外景からうける感じは変に黒かった。樹々の緑色が黒とまじり合って濁って感じられるのではなく、まばゆい純粋な新緑の美しさはそのままくっきり目に映っており、それが伸子の心に来る途中に、しまったシャッタアのように強情な黒さがあるのであった。
 喪にいる、という言葉を、伸子は思い出した。喪の黒さとは、こういうものかと思った。しかし、伸子は悲しんでいるのではなかった。一つも悲傷はなかった。ただ奇妙な、不自然な、信じることの出来ない混乱が充満している。誰からも話しかけられず、考えの内側に好奇心をもたれず、きょう一人でいられることが伸子にうれしかった。
 きのう、動坂の家で多計代が越智と結婚しようと思うといい出したとき、伸子は全力をつくしてその不可解なことを、わかろうと努力した。自分としては必死にわかろうと努力しながら、多計代に対しては、最大の慎重さをもとめた。本能的にそうせずにいられなかったほど、越智と母との結婚という観念は伸子にうけとりがたかった。
 思えば、不思議でもある。ああやっ
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