る場合を考えめぐらしているうちに、混沌としていた伸子の想像のうちにいくらか現実性のある一つの点が照らし出されて来た。多計代は、ちらりと、あのひとも若いもんだから、ともらした。それは暗示の多い一言であった。越智は母に、男が女に求める肉体的な求めを、何かの形で出したのではなかろうか。いつか、越智が、もし現在の細君をもっていなかったら、多計代に求婚しただろうといったことを、多計代は伸子に告げたことがあった。いくらかずつ伸子にもわかりかけて来た。
「ね、お母様、越智さんは、お母様になにか特別なことを求めたの?」
「…………」
多計代は肯定も否定もしなかった。ただ、まぶたいっぱいになってきた涙が、頬にこぼれかかった。若くない、けれども繊細ななめし革のような不思議な艶のある滑らかな頬に涙の粒を光らせながら、指環のはまった手をとられたまま、娘の目のなかをじっと見つめている多計代の顔じゅうに、のっぴきならない苦悩があった。その苦悩は伸子の若い顔にもてりかえした。越智が何かを多計代に求めたことは事実であり、それに対して多計代がすぐには応じられなかった心持があることを、女としての伸子は理解したのであった。
伸子の心に涙がにじんだ。越智にひきつけられている母を、伸子はつよい反感をもって見て来た。その伸子の反感を、越智はうがったように娘が母にたいしてもつ嫉妬だという風に分析したりして話しているだろう。娘の感情は、嫉妬というよりもすこしちがった動きかたもあるのに。――多計代がゆとりのあるその身辺におこす波瀾の筋立てが余り月並で、伸子は主としてそこに反感をそそられて来た。いま、多計代のせっぱつまった顔をみると、伸子はその反感をうしなった。少くとも多計代の感情には、嘘をつくことの習慣がない。この発見は伸子の心を同情ふかくした。
「おかあさま……」
伸子はやさしく、母の匂いのいい手の甲に自分の頬を近づけた。
「いってくだすってよかった」
頬をすりよせている伸子の心に、思い出されることがあった。昔、伸子が少女だったとき、多計代が教えたことがあった。男と、唇と唇との接吻をすると、それはもう結婚すると約束をしたも同然のことである、と。漠然と結婚は一生の一大事とだけ知っている少女の伸子の感情に、結婚の約束をしたことになるのだという多計代の真面目な重々しい言葉は決定的に威嚇的に刻みつけられた。もしかして、多計代は、今の自分の場合についてそのとおりに感じているのではないだろうか。妻である多計代の場合、少女だった伸子に警告したよりももっと責任は現実的であるし、そういう事情だとすれば、嘘のつけない多計代が、それについて悩むのは自然だと思われた。大柄で、多産で、衣類やもちものなどにやや俗っぽい豪華の趣味をもっている多計代のうちに、古風に、矛盾しながら保たれている純潔さ。
伸子は、ある手紙を思い出した。年月が経って古びた白いありふれた四角い大型の西洋封筒の表には、鵞堂流で英語を書いた見本のようなのんびりした曲線的な字で、ミスタ・タイゾウ・サッサと、ロンドンでの泰造の下宿先が宛名にかかれている。封のとじめには、赤い蝋で封印する代りに、赤い小さい楕円形の紙を細かいレースあみめにうちぬいた封緘紙が貼りつけてある。封筒は行儀よく鋏で截られていて、なかに日本の雁皮紙《がんぴし》にしんかき[#「しんかき」に傍点]でぴっしり書き埋めた厚い手紙が入っていた。細かく書きつめられている字は伸子によみ下せないほどの草書で、幾枚もつづいた終りの宛名に、英京ロンドンにて、なつかしき兄上様まいると、色紙にかくように優美に三行に書かれていた。多計代という名をかく前、本文の終りの一行たっぷりが、上から下までバッテンバッテンのつづきでうめられてあった。
自分に貰うことになった古い用箪笥を片づけているとき、伸子は、偶然明治四十年という日づけのあるその母の手紙を見たのであった。改良服を着てバラの花をもった三十をこしたばかりの多計代のその頃の写真が、そっくりそのまま字になったような手紙であった。伸子は珍しくなつかしくて、遠慮しながら丹念に眺めた。そのとき、手紙のおしまいの行がどうしてバッテンつづきで終っているのか、不審だった。あとになって伸子は思い当ることがあった。バッテンは、KISSを意味するバッテンであったらしい、と。あんなにどっさりの、おしまいは墨さえかすれたがむしゃらなバッテンバッテン――。伸子は足かけ五年留守居していた母が兄上様と宛名にかいていたこころもちを思いやり、同時に、そのどっさりのバッテンに親愛を感じた。その頃の写真にうつっているふっくらした母の手つきの愛らしさ、子供らしさをそこに感じた。
そういう手紙をロンドンでうけとったとき、泰造が、いつも、まずそれをポケットにしまって、しばらく落
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