子は見えない手で肩をおさえられたようにまた元の座蒲団の上に坐った。
不自然に話題をとばして、多計代は、親戚のある夫人が沢田正二郎に熱中していることを批評的に話しだした。
「ああいう心持なんか、話にはわからない……」
母がいいたいのはこのことではない。そう伸子は直感した。多計代は、まつ毛をしばたたいて、左手で半ば無意識に指環をうごかしていたが、全然前おきぬきで、
「ねえ伸ちゃん、私、越智さんと結婚しようかと思っているんだけれど、お前どう考えるかい」
といった。伸子は、真暗闇の中でいやというほどなにかにからだをぶつけながら、なににぶつかったのか瞬間には判断出来ない、あの心持になった。
「――けっこん?――結婚て……」
言葉の響とその意味とが目前のお召の短い丹前をきた母とどうしても結びつかなくて、伸子は苦しい顔になった。結婚という言葉は、それは伸子にしろ知っているし、どういうことかもわかっているわけだが、しかし――。母と、越智とのけっこん[#「けっこん」に傍点]――。伸子は、
「わからない」
せつなそうに多計代を見つめて頭をふった。母は五十二であった。越智圭一は、はっきりは知らなかったが三十二三の男である。自然なものとしてその二人の結婚などということを、伸子には想像出来なかった。伸子は、おびえたような眼色になった。
「――結婚て――ここの家を出て?」
「それゃ、どうしてもそういうことになるね」
上気して、まばたきこそ繁いけれども多計代は落着いて答えた。
「伸ちゃんは、どう思うかい?」
「あんまり不意で……それゃ私たちは大きくなったんだし、お母様がどうしてもそうときめるんなら、とめられないことかもしれないけれど……でも、変だ!」
伸子は俄かに正気づいたように坐り直した。
「本気なの?」
「――結局そうしかしかたがないと思うのさ」
だんだん伸子は平静をとりもどした。そして、母のこの唐突でしかも重大な話が、抑えかねる情熱的な焔のもえたちとして出されているというよりも、むしろ何かもうすこし別な動機から出ているらしいことを感じはじめた。おぼろげに直覚されたその別の動機までさぐりつこうとするように、伸子はなおじっと多計代を見つめた。
「そうなったとき、お母様は、自分の経済力をもっていらっしゃるの?」
「どうせ、たいしたものはありゃしないけれど、わたし一人ぐらいはどうにかなる」
「だって――」
大学の助手をしている三十二三の若い男に、母のもっているこのごたごたした生活の全部の幅がどうして支えきれよう。多計代は、花弁に細い花脈の網目が浮いて見えながら最後の美しさと芳しさを放っている花のような若さをもっていた。けれども、その最後のあでやかさや匂いは、多計代にとってどんな不満があるにしろ、佐々の家の安易な日々を条件として保たれているものであった。かりに越智が本心から母にたいして何かの魅力を感じているにしろ、それは全く、この家の夫人としての多計代の身にこそついているものであった。大学助手の越智の格子戸のはまったささやかな家、その上金銭に関して鷹揚とも思えない風※[#「耒−人」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》の越智。それらと結び合わされた母の姿を思い描くと、そこに女としての生活の発展などということは、みじんも考えられなかった。伸子の目の前には急に激しい疲労と老いに襲われた哀れな母の姿しか浮ばなかった。――結婚――伸子はいよいよおどろきを眼にたたえて、テーブルの上に組合わされている多計代の、ほそくて白くすべすべした手を見た。
「……それ、どっちからの話? あっちから?」
「はっきりそうともいえないんだけれどね……」
「じゃ、お母様から? もうおっしゃったの?」
「だから、伸ちゃんはどう思うかって、きいているんじゃないか」
「――こっちから、なんて……」
伸子は、
「変だわ、変だわ」
不安が募って、そういいながら白くて柔らかい多計代の手をつかんだ。
「まるで変じゃないの? どうして? ね、なぜなの? 問題にもならないみたいなことなのに……」
「この間研究室へ行った時にね、あのひとも若いもんだから――」
ついそういいかけて多計代は周章《しゅうしょう》した。大学にある越智の研究室へ行くことを、多計代はこれまで保からもかくしていたのだった。伸子からはもとより。――そういういきさつに拘泥せず、
「そしたら?」
手を握ったまま多計代を促した。
どう表現していいかわからない、けれども、この話全体の核心になる事情がそのときのことに潜んでいるらしかった。
「……ともかく私としちゃ、もう結婚をするしかないのかと思うようになったのさ」
多計代の眼に涙が浮んだ。涙の浮んでいるその母の眼に、まばたきもしない自分の視線をぴったりと合わせ、想像されるあらゆ
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