母の死後、すっかり没落した多計代の実家は、銀行から宅地を差押えられかけていた。多計代は、明治初期の学者として著名だった父親の記念のために、その土地は人手にわたさず、佐々で買いとりたいと計画しているのであった。
「あなたったら、建築家のくせに、ちっとも事務的にてきぱきして下さらない――よく、それで事務所の用がすんでいらっしゃる」
「そんなにいそぐなら自分でやったらいいじゃないか」
 多計代は、
「あなたは、寺島のこととなると、実に冷淡だ」
 涙をうかべて、ふっくりと白粉のついている顎のところに泣くまえの梅ぼしをこしらえた。
「わたしに出来ることなら、はじめっからお願いなんか、しやしないじゃありませんか」
 長椅子にあおむけに横になっている泰造は、あおむけのまま脚を高くくみあわせた。そして、
「俺は、寺島のことについては、お前のこころもちのすむように、なんでもいうとおりにして来てやっている筈だ」
 伸子のところから父の顔は見えなかった。けれども泰造が煖炉前の天井についている灯を見つめながら、複雑な心もちでしんみりとそれをいっている様子はまざまざとわかった。
「世間の亭主はどんなもんか、少しはくらべて見るがいいんだ」
「恩にきせるなんて――卑怯ですよ」
「俺が卑怯かどうか、伸子にきいてみろ」
「ほら、とうとうあなたの、伸子にきいてみろ、が出た!」
 多計代は涙をうかべながら、かちほこった、刺すような笑いかたをした。
「ひとがいるといつだってそうなんだ、あなたってかたは。――虚勢をはって――」
「いいかげんにしろ!」
 ねていた泰造が長椅子の上でおき上った。
「自分の娘をひと[#「ひと」に傍点]っていう奴がどこにあるものか。――いったいなにが不平でそう悪態をつきたいんだ。何不自由なく食わせてやっているくせに。――したいだけの我ままだってしているじゃないか」
 多計代の頬を涙が光ってころがり落ちた。
「何不自由なく食べているのが、そんなにお気にいらないんなら、私はどうでもしましょう。……さぞあなた一人で、ここまでになすった家なんでしょうから」
 袂からふところ紙を出して、多計代は涙をおさえた。少しふるえるその手の中指に見事なダイアモンドの指環がきらめき、煖炉棚の上におかれた振子時計が、ガラス・ケースの中で一本の金線につられた金色の振子を音なくまわし、部屋にひろがった静寂の深さと時のうつりを計っている。伸子はその座にいたたまれない思いになった。激情的な多計代は、いつも対手が一番ひどいことをいわずにいられなくなるまで、感情を刺激し、駆りたてた。伸子も始終それにまきこまれて来た。しかし、今夜、伸子はその渦に巻きこまれず、不思議に悲しい鮮やかさで、この家庭の全情景を心に映しとった。

        十二

 翌朝、身じまいをおわって伸子が畳廊下へ出てゆくと、襖があいていて、泰造が一人洋服箪笥の前で、身仕度をしていた。
「お早うございます、もうお仕度?」
「ああ。よくねましたか」
 泰造は、きちんと剃った顔をあおむけ、洋服箪笥の戸の裏についている鏡を見ながらネクタイを結んでいた。ホワイト・シャツの背中が鼠色フェルトのズボンつりの交叉の間に清潔にふくらんで、あおむきにのばしたのどの皮膚が、カラーのあわせめから顎へかけて年配らしくたるんでいる。伸子が一緒に暮さないようになってから、もう何年か、泰造は毎朝一人で、箪笥の前で身仕度をととのえて事務所へ行くのがならわしになった。多計代は、良人や学校へゆく息子の朝食の時間におきて来ないことが多かったし、出勤の身じたくも、帰宅して来たときの着がえも、伸子が覚えてから滅多に手つだわないひとであった。泰造は年来、朝はこうして一人で仕度して出かけ、帰って来て冬ならばストーヴの前においてある和服に、今ごろなら衣紋竹につるしてある和服に一人でさっさときかえた。お嫁に来たとき、あんまりおばあさまの焼餅がひどくて、お躾《しつ》けがよすぎたもんだからね。多計代は自分たち夫妻の習慣を、そういって笑った。
 けれども、年とった夫婦である父と母とがあらそいをした今朝、父がやっぱり一人箪笥の前で身仕度をしているのは、いつもの通りでありすぎて伸子には気の毒に感じられた。伸子は箪笥の中についている小抽斗からハンカチーフを出して、上着のポケットに入れたりした。
「お父様、よくおやすみになった?」
「ねたとも、例によってたちまちですよ」
 父の顔色は、ほんとに、昨夜もいつもどおり枕へ頭を置くやいなや、すぐいびきになったと告げている。顔色ばかりか、手帳と紙入れとを内ポケットへ入れる手つき、箪笥をしめてまた食堂へ戻ってゆく足どり、それらのどこにも、昨夜のもつれた気分の跡はなかった。もう今日一日の活動の一歩がふみ出されていて、その流れのうちにある
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