と女との生活というものが、父母という関係から引きはなれて伸子にかえりみられた。しっかりつかまえてそれを解決してしまうにしては、頭も尻尾もない奇妙なもやもや。生活の中から湧き出る感情の明暗は、伸子が佃と生活した数年間にも充満して、ついにその生活をふきとばしてしまった。それが、もう三十年も生活して来ている親たち夫婦の間にもある。夫婦のなかにあるばかりでなく、伸子と素子との生活感情にも、形をかえてしのび入って来ている。十六歳の伸子は真剣に、こんなに喧嘩をする父と母とが、次々に赤坊を生んで、その赤坊は自分が守りしなければならないという事実について、どうしても納得できなかった。大人たちの生活に軽蔑を感じた。十六歳の心は失われている。けれども、伸子は、午後出席した茶話会での早川閑次郎の話しぶりにしろ、ふれる生活のあらゆる面に、さっぱりとした人間の結合や接触の自然さがないことを息づまるように感じた。再び伸子は門の細道のしき石にちりばめられている花びらの形を思い出した。それから、|東、西、我家ほどよきところなし《イースト・ウエスト・ホームス・ベスト》と焼きつけられている真珠色の|焼つけ硝子《ステインド・グラス》の窓を思った。その硝子は、食堂で父がどなった背後の煖炉わきの高い小窓にはめこまれているのであった。
スリッパで廊下を来る足音がした。きぬずれの音がした。伸子は、椅子から立ち、水道の栓をひねって、手を洗いだした。そこへ多計代が入って来た。
「おや、いたの」
多計代は伸子の肩の一端が映っている鏡に向って一寸自分を眺め、やがてセルロイドの盆から櫛をとりあげて、格別みだれていないいつもの大きくふっさりした庇髪をかきつけた。
「お父様はあれだから困ってしまう、すぐ真っ暗になって……」
越智は帰ったことが、多計代の話す調子でそれと察しられた。
「あの有様じゃ、何ごとかと思うじゃないか」
「…………」
伸子は黙っていた。多計代も、伸子がさっき涙をふきにここへ来たように、きもちをしずめるために洗面所に入って来たにちがいなかった。
鏡に向って上目で前髪の毛すじをととのえながら、多計代はいくらか弁解のように、
「お父様ったら、愚弄したとか何とかって――おっしゃることがどうしていつもああ極端なんだろう。――こないだ越智さんが一緒に夕飯をたべて、あとでいろんな話が出たんだけれど、何しろお父様は、本をよまない方だしね、越智さんはああいう真面目な人だし、すっかり話がちぐはぐになっちまって、お父様はさんざんだったのさ、それだけのことだのに……」
「またシュタイン夫人のことでもいったんじゃないの?」
「…………」
ほんのにくまれぐちと自分で知っていったことに、多計代は答えない。伸子は愕然とした気持で、母の顔を見た。多計代は白くふっくりとしたきれいな顎をひきつけて、衿もとにかかった白粉を軽く指さきではらっている。越智に対してつかみかかるような激しい言葉がほとばしりかけたのを、伸子はやっと自制した。伸子はそこに、はっきりと、父と母とそして自分にも加えられた屈辱を感じたのであった。父親似の丸い伸子の顔に悲しみが現われた。黙って立っている伸子に、多計代は、
「食堂へ行くんだろう?」
ときいた。
「ええ」
多計代は、どうやら伸子と一緒の方が工合よい風で、つれ立って食堂へ行った。
珍しく保が、友人と回覧雑誌を出す計画のうちあわせで夕飯にかえらなかった。父の好物な豆腐のあんかけが出来ていた。それは伸子の好物でもあり、多計代はおくれてかえる保のために、
「保様がお帰りになったら、よくあつくしてあげてね」
とお給仕に念をおした。
幼いつや子が食堂から去ると、泰造、多計代、伸子の間に、さっきからつづいた気分がかえって来た。伸子は大テーブルの上のすこし離れた場所で夕刊をひろげていた。泰造は、煖炉わきのつくりつけの長椅子に、クッションを枕にして横になっている。多計代はいつもの、入口から正面の席で、薄い藤紫の地にすがぬいのある半襟のよくうつる顔をまっすぐに、いくらか胸をはるように坐っている。坐っている爪先が白い生きもののように落着きなく動いていることは、多計代の繁いまばたきの工合でしれた。
しばらくそうしていて、やがて多計代がその沈黙にたえられなくなったように、
「お父様」
さ、ま、というところに力を入れて泰造を呼んだ。
「なんだ」
「寺島の地所のこと、してくださいましたか?」
「まだだ」
「――困るじゃありませんか」
伸子は、自分に向けられた母の視線を感じた。が夕刊から目を動かさなかった。両親の心持のもつれが、こういうところに話題をとらえて、しかも母の方から挑むようにもち出されたことは、伸子に思いがけなかった。
「あしたですよ、期限が」
寺島に、母の実家があった。祖
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