彫りを浮き立たせ、同時にこの食堂の意味のわからない独特な特徴である雑多な罐や箱のつみかさねを、隅の方で目立たせている。
急に廊下ごしの客室のドアがあいて多計代が出て来た。
「こんにちは」
という伸子に、
「おや」
目を向けたきりで多計代は、
「あなた」
坐っている泰造のむかい側にまわった。
「ちょっとお会いんなって下さい。さっきから申上げているのに」
泰造は返辞をしないで、新しい来信の封を鋏で切っている。その泰造の鼻の穴はふくらんでみえる。伸子は父が癇癪をおこしたことを知った。
「何でもないことじゃありませんか、ちょっと顔を出して下さるぐらい――保だって世話になっているのに……」
伸子は、眼をそらした。白いレースの夜の窓がそこにある。苦しく心がひきしぼられた。また越智が来ているのだ。――
挽茶《ひきちゃ》のような淡い緑の絽《ろ》ちりめんの単衣羽織をきた多計代は立ったまま、いらだつように、
「いつもあなたは御自分のつきあいはあんなに大事になさるくせに――紳士《ジェントルマン》というのは、そういうもんじゃないでしょう」
泰造の顔に、さっと血のけがのぼった。鋏を乱暴にテーブルの上へおきながら、
「俺はジェントルマンでなくていいんだ」
めったにない激しい調子でいった。
「俺は会わない。会うもんか。あんな家庭の侵入者に、俺が会う必要なんか絶対にない」
多計代の顔の上に困惑が現われた。
「そんな乱暴なことおっしゃって、私が困るばっかりじゃありませんか。せっかくお目にかかって御挨拶したいっていっていなさるのに」
「何の挨拶だ! この間のざま[#「ざま」に傍点]は何だ。人を愚弄して。ああいうつきあい法というものはありませんよ。会わなくて気に入らないなら幸だ。さっさと、今、すぐ、帰って貰おう」
威圧されたように多計代は黙った。やがて、ゆっくり歩いて客室のところに行ってハンドルに手をかけ、うす緑の羽織姿を半ば消しかけたとき、泰造が大きな声を出してこちらの食堂からどなった。
「今後も決して会わん。すぐ帰って貰おう!」
泰造はそばに動かずにいる伸子の方をみず、血の色ののぼった髭の白い顔をがんこに書類にむけている。その横顔が伸子の目の前にあった。その父の耳のなかの小さくとがったところに黒い毛がもしゃもしゃ生えている。伸子は、涙が浮んだ。日頃つづいていたにちがいない父の不快さや、こういう腹立ちの爆発のしかたに同情がもてた。みっともないと思えなかった。理づめな物言いの出来ない父、そして、面と向った対人関係では気のよわい父には、せっぱつまるとこういう爆発をするしかない気質がある。伸子にそれがよくわかった。
伸子は、そっと立って、洗面所へ行った。ハンカチーフで涙を拭いたあとの顔を、そこの壁につけてある鏡にうつした。人の心のなごまるようにと、この家の門の石じきには花の形がちりばめてあるのに。――
流しの前に、木の椅子がおいてある。ひっくりかえすと踏台になる椅子だった。伸子が小さかった時から、その椅子はそこにある。伸子はニスのはげかかっているその上にかけた。こういう風にして、母がかけていて、そのわきに娘の伸子が立っていたことがよくあった。夜中に母が何か父と衝突して、涙をこぼしながら下りて来てここにかけていたとき。また、もっと小さかった伸子が、錦輝館の泰西大名画という映画につれて行って貰おうとして、ともかく身じまいをはじめて母の気がきまるのを、辛抱しながらこの椅子にかけている母の横に立って待っていたとき。いま伸子は、ふと一つのことを想い出した。
何年か前、知人の細君で日野さよ子というアメリカ帰りの女が、佐々の家へ出入りしたことがあった。どういうわけだったか良人は日本にのこっていて、細君だけがアメリカへ行き料理の勉強をして帰って来た。小柄な、いくらか蓮葉で愛嬌のいいそのひとが、動坂のうちへも来て料理を教えてくれるということになった。もうその時伸子は佃と結婚していて、赤坂の方に住んでいた。あるとき、来てみると、母がしきりに父をからかって、
「ほんとに、どうなすったのかと思ったよ。お父様ったら、今出たばかりのお風呂に、また飛びこみなさるんだもの」
伸子にそういった。
「そんなことはないっていってるじゃないか」
「いいえ、おかくしになったって駄目ですよ」
日野さよ子が来たと聞いたら、泰造が、そうか、というなり、さっき帰ったときにもう入浴をすました風呂へまたとび込んだ、というのであった。伸子は、半信半疑で、変な話だと思ってきいた。母が、はしゃぐようにしてくりかえしていうほどおかしくもなかった。
伸子はそのときのことを、母の不自然なほど陽気だった笑い声までつれて思い出した。そして、父はいま越智に対して、どなりつけた。――夫婦の生活というもの、男
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