筆記している。伸子は、早川閑次郎らしい逆説的な冒頭だと思った。
「この優秀な孔子の道徳は、女子の生活方向というものをきわめて明瞭に示して来ています。非常に具体的に親切に教えている。男女七歳にして席を同じゅうすべからず、とか、女子と小人は養いがたしとか、そのほかまあ、いろいろ有益なことを教えています」
筆記している小柄の人は、少しけげんそうな表情でちらっと目をあげて、早川閑次郎の方を見た。腕ぐみをして、うなだれていた司会者も、顔をもたげて、話し手に注目しはじめた。
「ところが、近頃、中国の若い人々、とくに若い婦人は、この結構な孔子の道徳に対して反抗しておられるようです。盛んに男女同権を主張しておられます。ですが、どうも私の考えるところでは、反対する方が間違っているし、結局のところ女の不幸になると思うんです。女子と小人――つまり、女や、まあ一般に余りもののよくわからない人間は、皆しっかりした男にたよって安全に生かして貰ってゆくべし、それでいいというのは、女にとって実に幸福なことじゃありませんか。日本へ来てみられておわかりでしょうが、日本は今失業が多くて男は皆へこたれています。しかし、男に養って貰う女は、何とかして男がやしなってくれるから、そんな男のような苦労をする必要がない。男尊女卑ということは、女の楽園、パラダイスだと思うんです。皆さんも、折角教育をうけ、教育者として活動しようとしておられるんですから、このところをよく考えて、下らない新しがりはおやめになるのが賢明であると思います」
ほとんどあっけなく早川閑次郎の話は終った。日本語のわかるものの顔には、彼の話の真意をなんと解していいのかわからない、ばかにされたような期待はずれの感情がみなぎった。
伸子はあきたりない思いをもってきいているうちに、だんだん不愉快になった。猫が、犬のように飼主にこびず、ある意味での親愛感や共感なしに、冷然と飼われているそのエゴイズムが面白い、と書いているこの評論家は、この話で、皮肉な逆説として、男を食う女になって、男尊女卑を現実で裏がえしにしてやれ、といおうとしているらしく思えた。けれども、彼のひとひねりしたそういう話しぶりは、一般のききてに通用しないものだし、まして彼の論法はひたむきな向上心と観察欲にもえてここへも出席して来ている中国の女学生たちのこころにふれるものではない。伸子は、この評論家が、何につけても、これまで在るものをただそのまま裏がえしにしてしゃべるしか能のないことをおどろいて、気持わるく発見した。女が、自分の人生の道をもちたいと願っている心、中国の女学生が国の独立のために役だとうと決心している心は、こんな風なよそよそしい、有名人の持芸で、何ものを加えられるというのだろう。伸子は、年長者としての親切のない態度へのおどろきと自分の機智に満足している有名さへの軽蔑で、本来は素朴で好意的であるべき会に主賓となっている評論家を見つめた。
黒服の小柄の人が立って、ノートを見ながら早川閑次郎の話を丁寧に通訳した。伸子がきいていると、通訳者の丁寧な通訳ぶりそのものに、ひそめられているある感情がうけとれた。通訳の半ばから、女学生たちの群の上にはっきり動揺があらわれた。一人の茶っぽい服を着た女学生が自分の席から、
「シェンション」
と呼んで手をあげた。通訳の人は、ノートを見ながら抑揚のつよい中国語で話しつづけ、左手の掌《てのひら》でその女学生の発言を柔らかくおさえるようにしながら、しまいまで通訳した。
「シェンション!」
「シェンション!」
「シェンション!」
その声々は、伸子の動悸をたかめる響きを持っていた。中国の女学生たちのせきこんだ感情が実感された。おっしゃい! どんどんおっしゃい! 伸子は、眼をきらめかせて、手をあげている中国女学生たちを見た。
「はい」
茶色っぽい服をきた、ほっそりした体つきの女学生が指された。通訳の終るのをまちきれずに「シェンション」と鋭く呼んだ女学生であった。席から立つと、その女学生は、おかっぱを頬からふりさばこうとするようにきつく頭をひとふりして、
「早川先生!」
と、ハヤカワという姓だけ日本語で呼びかけた。そしてぴったり自分のからだを、講師の方へ向けた。そして、激怒した口調の中国語で、たたみかけ、たたみかけして話した。二度ほど間に「早川シェンション」とよびかけながら。
黒服の小柄の人が、その内容を日本語にしてつたえた。が、その通訳は、じかに耳できき、その若い声の抑揚から激情が感じられた話の調子にしては、ひどく内容が簡単につたえられたようだった。私たち中国の若い教育者は、真に故国を文明国とし、人民を幸福にしたいと希望している。早川先生の孔子に対する見解は、私たち中国の若いものが孔子を見ている見かたと正反対であり
前へ
次へ
全101ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング