ます。孔子と儒教は、中国の女を不幸にし、若いものを老人の圧迫の下においている。恐らく日本でもそうでしょう。先生の御意見には反対です。そういう意味がつたえられた。そういう言葉は伸子に同感されるものだった。
「シェンション!」
という呼び声が、いろいろの若い女の声でほとばしるようにおこったときから、早川閑次郎は顎骨の張った面長な顔に、優越的な微笑をただよわせながらみんなを眺めていた。女学生の反駁をつたえられると、その表情は一層濃くなって、その顔つきはほとんど面白がっているようになった。早川閑次郎は、ふたたびゆっくり立ち上って話しはじめた。
「あなたがたが、お国の人の幸福のために熱心に努力なさるのは何よりです。私は十分皆さんの誠意に敬意を払います。しかし、文明といい、人智の啓発ということは、ものごとを複雑に理解する能力です。私は、あなたがたが、誠意の上に加えて、諷刺を理解する力をもたれることを希望します」
それは、また小柄な黒服の人によって通訳された。論争の中心点をそらした返答をうけて、女学生たちはしばらく沈黙した。やがて灰色っぽい綾織の服をきた、すこし年かさらしい一人の女学生が立って、努力して感情をおさえながら、自分たちが、中国を独立した文明国にしたいと願う心、民族を向上させたいと思っているこころは、諷刺の問題ではないと思う、といった。しかし、彼女はそれから先へ話を展開してゆくことが出来なくて、着席した。
一座には重苦しさと、とらえどころのない不服・不満がみなぎった。
中国女学生たちは、はじめはひそひそと自分のとなりの仲間と話しはじめ、やがて次第にその声がたかまって、しまいには一人おいた先の仲間の言葉にまで、日本語だったら、いま、なんていったの? とでもいうらしく、互におかっぱの頭をのり出さして討論をはじめた。
司会者側は、こんな結果になろうとは予想もしていなかったらしく、とりいそいだ様子で小声にうちあわせ、またそれを黒服の小柄の人につたえ、すぐつづけて日本側からの婦人に挨拶して貰うことになった。
伸子の初対面だったある女学校長が、日本と中国の友誼と文化の協力について、もとから印刷されているような言葉をのべた。もう一人、婦人運動にしたがっている婦人の話があり、その人は、それぞれの国の貴重な伝統を新しい生活の中へ新しい形で生かしてゆくべきである、という意味のことをいった。
伸子の気持には、早川閑次郎の話しかたにたいして、激しい反駁がうずまいていて、もし万一、指名されたら、この気持をどう話したらいいのだろうかと、不安だった。
三年ばかり前、大戦後のヨーロッパで有名であったアンリ・バルビュスの小説「クラルテ」が翻訳されたとき、その出版記念会があって、伸子も招かれた。その夜、フランス文学者である松江喬吉がテーブル・スピーチをした。翻訳という仕事は女性にふさわしい仕事だから、日本にもこれから優秀な婦人の翻訳家が出ることを希望する、という趣旨であった。そこに伸子の名もふれられた。司会者が、伸子に、それに答えるテーブル・スピーチをもとめた。なに心なく帯どめから白いナプキンをひろげたまま松江喬吉の話をきいていた伸子は狼狽した。話をききながら伸子は、自分は翻訳は出来ないし、したくない、そうはっきり思っていたのだった。生れてはじめてテーブル・スピーチに立たされた伸子は、上気して、人々の顔の見わけもつかなくなり、会場一面が明るくきらつき、花の色が赤や桃色に流れて目に映るばかりであった。伸子はやっと、小さい声でいった。翻訳はたしかに女性むきの仕事だともいえるけれども、女として、ひとのした仕事を、別の国の言葉に移すだけが、一番ふさわしい能力だときめられることは悲しいと思う。翻訳を立派にする人も出なければならないが、自分の仕事をする婦人も、もっともっと出なければならないと思う、と。もっと大きな声で願います、といわれながらやっとそれだけいったときの、のぼせたせつなさを思って、今も、伸子は腋《わき》の下がしっとりとするのであった。
いいあんばいに司会者は、伸子を指名しなかった。日本側の婦人客が話し出してから、中国女学生たちは、礼儀上しずかになって、その話をきいた。が、一座には、親睦の雰囲気は最後までかもし出されなかった。伸子が不服をもったこころを胸にたたんでいるとおり、中国女学生たちの顔々には、なんのための会だったのかといぶかしがり、不満がっている表情がありありと浮んでいた。挨拶が終ると、またすぐ中国女学生たちは仲間で話し出し、それは批判的な内容であることが、言葉のニュアンスや顔つきで、伸子にも感じられた。一九二七年というその年の二月末には上海の大ストライキがあった。その結果臨時革命委員会というものができて上海市の政治が中国労働者によって行われは
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