していた。
「それゃ心がけておかないもんでもないけれど……」
 素子は、上まぶたをひきそばめるような視線になって、じっと吉川の、きちんと白衿を合わせているあたりを見た。
「あんたも、やっぱり家はいいんでしょう?」
「……生活にこまることはございませんけれど……」
「なにしろ女房子のある大の男が、これだけ失業している時代なんですからね。お金に困らないお嬢さんが、わざわざ一人分の仕事を横どりしなくたって、いいんじゃないのかな」
 伸子と入れかわって、長椅子に並んでいる蕗子と吉川とが、やっぱりね、という風に互に一寸顔を見合わせた。蕗子が、ひかえめに、
「私、なんだかそんな気もしたもんですから……」
といった。
 昭和と年号が改って間もないその頃、就職の見とおしをもって専門学校にしろ卒業出来る青年というのは幸運な例外であった。一方では、アルスだの第一書房だのという出版社が、我がちに大規模な予約出版募集をはじめていて、大型の新聞紙一頁べったりの広告が出たりしていた。出版社同士の商売喧嘩から、菊池寛、山本有三という作家が連名で、いかめしく抗議書のようなものを新聞に公表しているのなどを、伸子は小説をかくとは云いながら自分の生活に遠い感情で眺めた。
 くちかずの少い、ふっくりした蕗子の心が、若い自分たち仲間の就職ということについても、いろいろ心を働かして考えている。はたちを越したばかりのそういう蕗子に、伸子はなつかしみをもって歩みよってゆく自分を感じた。素子が結論づけるように云うのだった。
「まあ、今のうちせいぜい勉強して、新しいロシアの小説でも読んでおく方がいいでしょう。どうせ、あすこのことだから、古くさいものばっかり読まされて来たんだろうから」
「じゃあね」
とうなずきあうようにして、蕗子とその友達とは帰って行った。
 八畳の縁側の柱の下へ座蒲団をもち出して、竹村が、ひとりでたばこをふかしていた。
「や、どうも……」
 素子が、そういいながら、紫檀の角机へ縞銘仙の袷のひじをついた。
「……この頃の若い女は、変って来たねえ」
 素子が、ロシア文科にいたとき、その大学で上級生だった竹村は素子と男の友人同士の口をきいた。
「とにかく、経済的に独立して働かなけりゃならない、と思うようになって来ているんだから、大した進歩だ」
 婦人の経済的独立の必要ということは、どの婦人雑誌でも扱う問題
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