ロシア語を習いに来ることになったとき、素子は、どうせ教えるのだから、と伸子にも勉強をすすめたのであったが、伸子が教科書を一緒に買ってもらった気持には、ロシアにひかれるものがあったのだった。
 稽古がすんだ部屋へ伸子がお茶をもって行くと、素子がいつもの赤く透きとおるパイプをくわえながら、
「なるほどね、そういえば本当にそうだ」
 面白そうに笑った。
「なんなの?」
「浅原さんがね、ワーリャさんの眼は、ほかの外国人の眼とちがって、じっと見ていても変になって来ない、っていうのさ」
「変になって来るって……」
 伸子はよく意味がのみこめなくて、
「どういう風に?」
ときいた。蕗子は、ふっくりした小さい口元でなかば笑いながら、
「あんまり碧い眼を見ているうちに、段々その人が何を考えているのか分らないようになるでしょう? 溶けるみたいになって。でも、この間はじめてお目にかかったワーリャさんの眼は私たちの目とあまりちがわないみたいで、わけがわかったから」
「本当に! そういえば、ミス・ドリスだって、眼だけ見つめていたら、何がなんだかわからなくなって来るわ」
 ミス・ドリスは蕗子のいる専門学校の英語の女教師で、人望があった。その人は、黄色っぽい髪に水色がかった菫《すみれ》色の瞳をしていた。
「フィリッポフさんの眼だって、そうだわ」
「あれゃ、色のせいじゃない」
 断定的に素子がいったので、蕗子も伸子も笑い出した。
「あの人は、人生そのものが、あんな風なのさ」
 そのとき、玄関で、
「ごめんなさい」
という男の声がした。
 伸子が出て行ってみると、たたきのところに立っているのは男と女と、二人の客であった。
「やあ……」
 テニス帽をぬぐ竹村英三に、伸子は、
「……御一緒?」
ときいた。女の客はその問いにあわてたように、
「いいえ。あの蕗子さんがあがっておりましょうか」
 自分が竹村英三のつれでないことを明瞭にした。その声をききつけて、
「おそかったのね」
 蕗子が出て来た。
「おお、おや。じゃあダブったんですね。門のところでおちあったんだけれど……」
 そう云って改めて若い女客を見た竹村に、素子が座敷から、
「竹村さん、一寸八畳の方にあがっていてくれませんか」
と声をかけた。
 蕗子の友達は、就職の相談に来たのであった。吉川という、その瘠せぎすの娘は、蕗子と同じ学校の英文科を去年卒業
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