せながら、丁寧に、熱心に、一つ一つの音を正しく読んだ。蕗子の、少女めいたちんまりした唇は、改まって外国の言葉を発音するとき微かにふるえた。
「さ、こんどは、あなた」
 伸子も、真面目に短い単純な文章をよんだ。けれども、伸子にはアルのきつく舌を捲き上げる発音がうまく出来ず、首をふるように力を入れていっても、それはエルに近い柔かい音にしかならなかった。
「変だね、こうしてさ」
 素子は、重いほど、どっさりある髪を束ねた顔を、北向きの窓の明るみに向けて、自分の口の中を伸子に見せるようにして、
「アル、ル、ル」
と発音してみせた。
「わたしの舌はすこし短いのよ」
 何度やっても成功しない伸子が弁解するようにいった。
「英語のアルも、ちゃんと出ないんですもの。耳がわるいんじゃなく、舌の出来がわるいのよ」
「――それだけよくまわるのに、アルだけ出来ない舌なんてあるかい」
 蕗子が、故郷の母がこしらえて送ってくれる色の淡い、おっとりした柄の着物に素直につつまれている大柄の若いからだを動かして笑った。
 三人は、それから一時間あまり、鉛筆を主役にして、いろいろに組合わされた文法の変化を稽古した。
「きょうは、この位にしておきましょうか」
 すると、袖口を少しずらして、蕗子が時間をみた。
「さっきお話ししました、私の友達。もう伺うと思うんですけれど――もう少しお邪魔していてようございましょうか」
「そうそう。――かまいませんよ」
 伸子は、お茶をいれに立った。このロシア語の稽古では、浅原蕗子が本体で、伸子はおしょうばん[#「おしょうばん」に傍点]の形であった。素子の友達が、同じ専門学校の後輩である浅原を紹介して、ロシア語を教えてほしいといって来たとき、素子も伸子も、大柄でおとなしくて口数のすくないその若いひとが、どうしてその勉強をしたいのか、よくのみこめなかった。蕗子は、その専門学校では国文科の上級にいた。はじめて蕗子が来たとき、素子がいくらか皮肉にからかうように、
「理由がないわけではないんでしょう。私なんぞにはいえませんか」
 笑いながら問いつめても、蕗子は、すこし顔をあからめて居心地わるそうにほほえんでいるだけで、何ともいわなかった。そんなとりなしも、蕗子の場合には、いこじには感じられず、ふくらみのある人柄が印象された。蕗子は土曜日ごとに、午後の一時間半、通って来ることにきまっ
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