あるからであった。
 あまり永くしん[#「しん」に傍点]としていたのに心づいて、急に不安になったように、
「ぶこちゃん」
 となりの部屋から素子が声をかけた。
「いる?」
「――いる」
「斎藤へ筍ほりによこせっていってやらないと、またあとで細君がうるさいね」
 その家は斎藤という軍人のもち家なのであった。
「……そうね」
「あしたでも、とよに持たせてやろうか」
「それがいいかもしれない」
 素子にその感情をかくすというのではなく、伸子はおだやかに、言葉すくなく襖越しの応答をした。地平線のかなたにひとかたまりの雲が湧き出した。青く晴れた空のひろさにくらべて、その雲のかたまりはごく小さくて、それを吹き動かす風も立っていないとき、その雲のかげについて、伸子はなんと話すことが出来るだろう。柘榴の幹をすべって、細かいその葉を梳きながら、郊外のごみのない日光が芝生にひろく射している。陽の明るさに向って瞳をほそめながら、伸子は頬杖をついたなり、じっと心の地平線に見えはじめている小さい雲のかたまりを見つめた。

        六

 土曜日の午後のことであった。
 伸子たちのすんでいる駒沢の奥の家の、裏に向った四畳半で、ロシア語の稽古がはじまっていた。
 伸子が、老松町の足袋屋のよこを入った路地のお裁縫屋に二階がりをしていたとき、その部屋は東も西も、二間のガラス窓であった。寒いのと光線が多すぎて落ちつかないのとで、伸子は暖い色どりで釣鐘草の花模様を染め出した厚い更紗を買って来てカーテンにした。その更紗が、この家では小蒲団の上おおいになって、ニス塗りの長椅子の上に可愛い長クッションのように置かれている。伸子と浅原蕗子が、行儀よい女学生のように並んでそこにかけていた。素子は、一人はなれて横の籐椅子にかけ、小テーブルをひかえている。三人のまえに、ベルリッツの緑色表紙の教科書と帳面とがあった。外国人のためのロシア語と、題がついている。その本のはじめのところが開かれて、素子が、すこしかすれるような特徴のある声で、それは何ですか? それは鉛筆です。どんな鉛筆ですか? という、簡単な問答をロシア語で、ゆっくり読んだ。
「浅原さん、よんでごらんなさい」
 先生らしく素子がそういった。蕗子は、膝の上にひろげていた本をとりあげ、ふっくらとした色白の鷹揚《おうよう》な口元を、馴れない発音のために緊張さ
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