ようになって来た。少くとも今伸子の前に並んでいる三つの若い顔のどれにも、苦悩の刻みめは大して刻みこまれていないように見えた。その顔々の上には、そういう風に毎日を生きている生活の習慣があらわれており、その習慣で身についたかまえがあるけれども、世間は紙くずが街頭をころがってゆくのを見るようにこの人々の生活を見ていて、うるさいときには少しの金をやって、追っぱらって来ているように思えた。そして、そういう関係もこの人々にとっては習慣のようになっているように思えるのであった。伸子はそこに社会の真の酷薄さを感じた。亢奮がしずまって、伸子は少しユーモラスに、
「どうも、あなたがたは、見当ちがいのところへいらしたようね」
といった。
「自分で書いて暮しているんだから、お金なんてないのよ。それに、わたしは、面倒くさいからくれてやれ、という風に、あなたがたを見る心持になれないんです」
 するとさっき、ゆするようにものをいった青年が、
「ふん」
と嘲弄した。
「詭弁でやがらあ」
 伸子は再び沈黙した。自分が詭弁を弄しているとは思えなかった。伸子の内心にはおどろきと疑問がひろがりはじめているのであった。こういう形で屈辱の立場に自分をおくに耐えるなら、どうして、生活のために何か一つの職業が見つけられないということがあるのだろう。伸子は、黙ってまじまじと三つの顔を見た。ピーター・クロポトキンの「革命家の思い出」をよんだときの感銘が思い出された。クロポトキンはアナーキストではなかったろうか。クロポトキンの「ロシア文学の理想と現実」を、伸子は、二度三度とくりかえして読んだ。そこにはよりよい人生にたいして燃えるような意慾がたたえられていた。人生と文学とを、人間のそのような精神の華として語る真実と美しさとがみちていた。クロポトキンはアナーキストであった。そして、今、目の前に並んでいる三つの顔。その三つの若い男の顔は、一つ一つ生れた故郷はそれぞれにちがう田舎の相貌をもっているとともに、互いに共通な習慣的な虚勢でこちらをにらんでいる。だが、それは伸子に、これらの人々が、ただ自分たちをアナーキストと名づけているにすぎないような心持をおこさせるのであった。
 伸子は、三人に向って丁寧にいった。
「どうか、お仲間の方たちによくいっておいて下さい、佐々伸子のところへ行っても金にはならないって。――」
 一寸ひっこん
前へ 次へ
全201ページ中91ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング