、貴方は、あの中に、何か御気の付いたことはなかったんですか」
 Aが返事をしないうちに、彼女は、あとをついだ。
「若し、何か、世間に対して、如何うかと思うような点があったら、注意して、なおさせてやって下さるのが当然ではないでしょうか。御承知の通り、百合子はまだ若いんだし、世の中のことは知らないのだから、貴方が指導して、正しい道を歩かせて下さってこそ、私は、良人としての価値があると思うのです」
「それは、勿論」
 Aは、詰問的な母の口調にあって、少なからず、感情の自由な活動を遮られ、言葉がうまく自然に出ないと云う風に見えた。
「いろいろな日常生活のことでですね、僕も出来る丈忠告もし、いいと思う方に進めもします。けれども、書くものについて丈は、僕は、一口も挟まないことにして居ます、どこまでも、自由に、自分のものを現わさなければいけないと思いますから」
「だけれども、何も、悪い自分のものまでを、放縦に現わす必要はないではありませんか」
 母は次第に亢奮を押え切れなくなった。
「先達って、百合子が来た時にも、随分熱心に話したのだけれども、どうしても合わない、間違った処がある。自分の心に感じたことは、何でも書かずには居られないと云うが、親を苦しめ、夜もろくろく眠られないような思いをさせることを、何もわざわざ書くには及ぶまいと、私は思うのです。芸術の使命と云うものは、決して其那低い処にあるのではない」
 彼女は、私の説明も、Aの弁解も聞かれなかった。
 涙をこぼし、顔つきを変えて、云いつのる。そして、終に、
「斯うやって私達が会うからこそ、お互に不愉快なこともあれば、誤解することもある。それを一々百合子が書かずに居られないようでは、決して為にはならない。だから、斯うします。お互にもっと諒解し合えるまで、貴方にも百合子にも、決して御目にかかりません。私には、実際辛い。死んでしまうかもしれないけれども――その方が結局、百合子の幸福になれば仕方がありません。貴方も御安心でいいでしょう」
 私には、全く意外のことであった。
 会えば不愉快なことがあり、私が何か書くといけないと云って、絶交すると云うことが、親子の間にあり得ることだろうか。
 彼女の涙のうち、掻口説かれる言葉のうちに、自分は、明に其に堪えない執着、もうあんなことは問題にして居ない愛の熱を感じた。
 私は母の為に、其那感情の本質的な無理をすることが恐ろしく思われた。
 幾度も会い、話し合ってこそ、物は理解されるのではないだろうか。それを、辛い、苦しい、死ぬかもしれないと云う思いで私を拒け、而も半分Aへの面当てのように絶交して、それで何のサルベーションがあるだろう。
 私は若い。斯程不自然な苦しいことも、何かの途で活かすことが出来る。然し、母は、後に、涙ばかりを遺し、結局、最大の問題である芸術に対する理解の欠乏に何の発展もなければ、万事は只、破壊ばかりになってしまうのではないだろうか。
 Aが何か云おうとしても
「もう何も云わないで下さい。今夜は、私の考えたこと丈をきいて頂くためにお呼びしたのだから、何を仰云ってもききません」
と斥けられる。
「おかあさま、それでいいの? 何だか余り……」
 自分は、到頭泣き出してしまった。彼女が、何とも云えず狂暴に、何とも云えず苦しさに混乱して居る様子が、自分には、云いようなく辛かった。和らぎたい心持は、溢れる程胸に満ちて居る。而も、私は仕事のことを思うと、もう親にも良人にも代えられない献身を覚え、その、わが命を守る為に、涙も、苦悩も、総て堪えて行かなければならず思うのである。
 その心持から、自分は泣き泣き、彼女の求める唯一のもの――悪うございました、と云う詑言を唇に上せなかった。
 やがて父上が帰宅され、下でAと話し、二階に来られ、何とも痛ましい顔をして
「ああ困ったことだ。家庭の平和をすっかり攪乱する」
と、大きい暖い頭を振られる。
 自分は、悲しみで爆発してしまいたい心持がした。私は皆が可愛いのだ。皆に可愛がられたく思う。けれども、可愛がられ、可愛がる明るい、賑やかな団欒と、芸術とを釣代えに、どうして出来るだろう。それは自分は、偉大な芸術家ではないし、神のような人格者でもないから、人の心を傷けることはあるだろう。相すまなくは思う。が、どうぞ、私が窮極に於て何を目指して居るのか、何の為に毎日、此命を保って居るのか、それ丈は、判って貰いたい。母と自分との関係など、難しい、辛いものは少なかろう。
 彼女は、彼女自身の悦び希望を以て、私を、小さい時から、芸術的傾向に進ませた。そして、いよいよ少しはものになりかけ、自覚、良心が芽生えて来ると、私と彼女との芸術観の深さ、直接性に著しい差が生じ、自分が進ませた道であるが故に、彼女は一層失望や焦慮を感じ、私は、絶えず、自己の内的生活、制作に、有形無形の掣肘を加えられると云う意識から脱し切れない有様なのである。
 自分は、其動機の裡に、仮令《たとい》、或程度の世間的野心や慾望の遂行が含まれて居ようとも、兎に角、母が、自分の傾向を理解し、一生を生かせる道を与えて呉れられたことには、深い感謝を覚えて居る。思想上種々なコンフリクトがあったとしても、自分のその有難さ丈は一点の汚辱も受けないのである。
 母が、それをすっかり理解し、自分も其点で、希望と信頼とを持って呉れたら、どんなによいだろう。性格の異うこと、何と云っても、彼女は芸術家には生れ付いて居ないこと。それ等が実感として彼女の反省にのぼりさえしたら、或程度まで譲歩は出来得よう。自分には、すべき実に多くの感謝がある。美しい調和、いやしい妥協ではなく、真心からとけた協和が生れない訳はないのである。
 父と自分との間には、可なり迄、此点はよく行って居る。自分は、父の家庭的位置と云うことにも深い理解と同情とを感じて居る。
 それ等のことは、又いつかくわしく書く機会もあろうが、ちっとも苦しめたくない、懐しい父が、彼の顔に憂いを漲らせ、悵然とされると、実にたまらない。どうでもよい。早くやめたい、とさえ思ってしまう。
 今も、森とした夜の畳の上に、彼が、一日中疲れた丸い脚をすとんと延し、斜に手をついて
「困ったことじゃあないか、え?――まあ、今夜はおそくもなったから、帰るといい。よく考えなくちゃならんことだ。」
と云われると、自分は言葉に従うほかない。
 母は、Aが、「それでも」と彼女の言葉を押して、理解され愛されることを懇願せず、
「それならば仕方がありません。私は、謹んで引下って居ります。私もよく考えますから、どうぞ、おかあさまも、よくお考えになって下さい」
と云って、立ってしまった為、一層、傷けられて感じ、絶望したように見える。
 自分は、
「それじゃあ、左様なら。おやすみなさいまし」
と云って、下へ降りた。
 此で、少くとも当分、又此処へは来られないなどとは、自分に嘘にも真個にされなかった。而も、それが事実なのだ。
 帰る道々、自分は、余り、意外な大きな事が突然起ったので、あの、青桐の黒い梢の見える明るい二階の縁側も、激しく声をあげて泣いた自分も、皆、夢の中のことのような心持がした。事に関しては、麻痺してぼんやり平気になったように感じた。
 が、床に入り、四辺が静になると、自分は、激しい悲しみに捕われて、気が遠くなるほど歎いた。
 憎い、どうでもよい者に、誰が此程涙を流そう。母よ。貴女も、今、そちらの静かな闇の中で、斯様な悲しみに打れて居らっしゃるのですか。何と云うことだ。辛いことだ。然もそれが避けられない――。彼の家で育った二十幾年かが、津浪のような記憶で、自分の感傷を溺らせた。
 翌日、自分は心が寥しく病んだようになり、一日床についた。
 その夜から、十一月の四日迄、まる一箇月、自分は到頭林町に足踏みしなかった。
 今までの、何時、彼方から呼ばれるか判らないと云うような気分もなく、一寸、仕事がつかえても、行って見ようかな、と云う遊び心に動かされず、当分は、却ってさっぱりと、心が落付いたような気分がした。
 国男さん、英男、スエ子も時々遊びに来る。その度に母の様子を間接にきき、彼女が、あの時、逢わずに死ぬかも知れないと云われたような切迫した心持では居ないらしいのを聞いて、私《ひそか》に安心する。彼女の方でもきっと、皆に、それとなく自分の様子を尋かれるのだろう。
 始めの間は、皆が、事の内容を知らず、何かあったらしい位で居たらしい。然し、時が経つに連れ、祖母が私可愛ゆさから気付き始めた。
「何故、近頃は百合子もAさんも来ないのか。何かあったのか」
 しきりに気を揉み、私の家にも来、声をひそめ、眉をあげて、訳をきかれる。
 八十の老女に云ったとて、判ることでもなし、自分は只、微笑した。それでも満足されないと
「いつかゆっくり行きますから、安心していらっしゃい」
と云う。
 けれども、母が、自分の胸一杯にある感じに負け、会田さんに万事の輪廓を話してから、母と我々との不調和は、少くとも家内では公然なものとなった。
 子供のうちから私を知り、白浜の海岸や飯坂の温泉に長い旅行を一緒にしたことなどのある彼女は、私を、深く愛して居るように見える。母が、私の身の上を心配し、泣き乍らAの不満なこと、殆ど悪人に近いような観察を話されると、半信半疑になってしまうのだろう。
 スエ子を連れて来、
「如何うして、左様なんでしょうね、真個に、思うようではないもんですねえ」
と云って、小皺の多い口元を震わせ、慌てて涙を押える。
「おかあさまの仰云るのをきくと、Aさんは、まるで悪い方のようなんですものね。貴女が、そんな方と一緒に居らっしゃる筈はないと思っても、矢張り、何だか心配で。――其でも斯うやってお目にかかるといつも元気にして被居るから、安心のようだけれども。……」
 祖母や会田さんに、心配され、口説かれる程、自分に困ることはなかった。何と云ったらよいか、わからない。彼女等の力で、如何うして貰えることでもなし、一緒に歎けることでもなし。底には云い難い淋しさを沈め乍ら、自分の活力が、その打撃に堪えて居るいつもの快活さで彼女等に対すほか、自分には仕方がないのである。
 又、頭では、芸術に対する自分と彼女との、曖昧に出来ない理解の差が、はっきりと光って居る。
 けれども、十一月に入り、新年が近づくにつれ、自分のその冷静な頭脳の明るみは、次第に他の感情で包まれるようになって来た。
 仕方がない。彼女の解って呉れる迄、自分は自分の生活を、すっかり独りで営もう、と云う自足《セルフコンテンド》の感情は、やがて、此、淋しく離れ離れになった有様で、新らしい元旦を迎えなければならないか、と云う、淋しい孤独感となって来た。
 大晦日や元旦の朝を、自分は子供の時から、いつにも増して賑やかに、家族揃って歓び迎える習慣をつけられて居た。
 クリスマスの贈物も、大晦日まで繰のべられる。部屋部屋の大掃除、灯がついてから正月の花を持って来る花屋、しまって置いた屠蘇の道具を出す騒ぎ。其処へ六時頃、父上が、外気の寒さで赤らんだ顔を上機嫌にくずし乍ら、
「どうですね、仕度は出来ましたか」
と、何か紙包を持って帰宅されるだろう。
 私や父は、いつも、家中の者に、何か一つずつ、気に入りそうな贈物を買い調えた。自分は早くから、父はその晩、皆の歓声をあげさせるような何物かを持って居るのだ。
 御きまりの、然し愉快な晩餐。それがすむと、私が
「さあ、皆、眼をつぶって!」
と、大きな盆の上に、綺麗に飾った包物を盛りあげて、正面の大扉から現れる。その時の、罪のない亢奮!
 光景《シーン》が、活々と目に現れた。その団欒の裡から、あの、真に物を遣れる者を持つ悦ばしさ、共に歓ぶ嬉しさを味う歳末の夜から、自分がのけられ、小さい唯三人限りの家で、ひっそりと笑いもせずに其晩を送るのかと思うと、何とも云えない心持がした。
 林町へ行くことが出来なければ、兎に角何処へか行かずには居られない。到底、此家に、吉祥寺の一〇八の鐘を聞いて坐っては居られない
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