本質的な無理をすることが恐ろしく思われた。
幾度も会い、話し合ってこそ、物は理解されるのではないだろうか。それを、辛い、苦しい、死ぬかもしれないと云う思いで私を拒け、而も半分Aへの面当てのように絶交して、それで何のサルベーションがあるだろう。
私は若い。斯程不自然な苦しいことも、何かの途で活かすことが出来る。然し、母は、後に、涙ばかりを遺し、結局、最大の問題である芸術に対する理解の欠乏に何の発展もなければ、万事は只、破壊ばかりになってしまうのではないだろうか。
Aが何か云おうとしても
「もう何も云わないで下さい。今夜は、私の考えたこと丈をきいて頂くためにお呼びしたのだから、何を仰云ってもききません」
と斥けられる。
「おかあさま、それでいいの? 何だか余り……」
自分は、到頭泣き出してしまった。彼女が、何とも云えず狂暴に、何とも云えず苦しさに混乱して居る様子が、自分には、云いようなく辛かった。和らぎたい心持は、溢れる程胸に満ちて居る。而も、私は仕事のことを思うと、もう親にも良人にも代えられない献身を覚え、その、わが命を守る為に、涙も、苦悩も、総て堪えて行かなければならず思うのである。
その心持から、自分は泣き泣き、彼女の求める唯一のもの――悪うございました、と云う詑言を唇に上せなかった。
やがて父上が帰宅され、下でAと話し、二階に来られ、何とも痛ましい顔をして
「ああ困ったことだ。家庭の平和をすっかり攪乱する」
と、大きい暖い頭を振られる。
自分は、悲しみで爆発してしまいたい心持がした。私は皆が可愛いのだ。皆に可愛がられたく思う。けれども、可愛がられ、可愛がる明るい、賑やかな団欒と、芸術とを釣代えに、どうして出来るだろう。それは自分は、偉大な芸術家ではないし、神のような人格者でもないから、人の心を傷けることはあるだろう。相すまなくは思う。が、どうぞ、私が窮極に於て何を目指して居るのか、何の為に毎日、此命を保って居るのか、それ丈は、判って貰いたい。母と自分との関係など、難しい、辛いものは少なかろう。
彼女は、彼女自身の悦び希望を以て、私を、小さい時から、芸術的傾向に進ませた。そして、いよいよ少しはものになりかけ、自覚、良心が芽生えて来ると、私と彼女との芸術観の深さ、直接性に著しい差が生じ、自分が進ませた道であるが故に、彼女は一層失望や焦慮を感じ、私は、絶えず、自己の内的生活、制作に、有形無形の掣肘を加えられると云う意識から脱し切れない有様なのである。
自分は、其動機の裡に、仮令《たとい》、或程度の世間的野心や慾望の遂行が含まれて居ようとも、兎に角、母が、自分の傾向を理解し、一生を生かせる道を与えて呉れられたことには、深い感謝を覚えて居る。思想上種々なコンフリクトがあったとしても、自分のその有難さ丈は一点の汚辱も受けないのである。
母が、それをすっかり理解し、自分も其点で、希望と信頼とを持って呉れたら、どんなによいだろう。性格の異うこと、何と云っても、彼女は芸術家には生れ付いて居ないこと。それ等が実感として彼女の反省にのぼりさえしたら、或程度まで譲歩は出来得よう。自分には、すべき実に多くの感謝がある。美しい調和、いやしい妥協ではなく、真心からとけた協和が生れない訳はないのである。
父と自分との間には、可なり迄、此点はよく行って居る。自分は、父の家庭的位置と云うことにも深い理解と同情とを感じて居る。
それ等のことは、又いつかくわしく書く機会もあろうが、ちっとも苦しめたくない、懐しい父が、彼の顔に憂いを漲らせ、悵然とされると、実にたまらない。どうでもよい。早くやめたい、とさえ思ってしまう。
今も、森とした夜の畳の上に、彼が、一日中疲れた丸い脚をすとんと延し、斜に手をついて
「困ったことじゃあないか、え?――まあ、今夜はおそくもなったから、帰るといい。よく考えなくちゃならんことだ。」
と云われると、自分は言葉に従うほかない。
母は、Aが、「それでも」と彼女の言葉を押して、理解され愛されることを懇願せず、
「それならば仕方がありません。私は、謹んで引下って居ります。私もよく考えますから、どうぞ、おかあさまも、よくお考えになって下さい」
と云って、立ってしまった為、一層、傷けられて感じ、絶望したように見える。
自分は、
「それじゃあ、左様なら。おやすみなさいまし」
と云って、下へ降りた。
此で、少くとも当分、又此処へは来られないなどとは、自分に嘘にも真個にされなかった。而も、それが事実なのだ。
帰る道々、自分は、余り、意外な大きな事が突然起ったので、あの、青桐の黒い梢の見える明るい二階の縁側も、激しく声をあげて泣いた自分も、皆、夢の中のことのような心持がした。事に関しては、麻痺してぼんやり平気になったように
前へ
次へ
全10ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング